天狗の変遷
天狗の歴史~江戸時代(八大天狗の登場)
日本八大天狗は、日本全国の各地に伝わる天狗の中でも特に名高い8つの天狗を指します。
これらの天狗は、それぞれ特定の地域や山に関連付けられており、その地域の信仰や伝説に深く結びついています。
日本八大天狗の成立は、中世の修験道とその信仰背景によるものと考えられています。
修験道は、山林で修行し、密教的な儀礼を行い、霊験を感得しようとする宗教です。
山岳信仰に神道・密教・陰陽道などの諸要素が混成したもので、開祖は役小角とされます。修験道は日本独自の宗教で、山岳崇拝を基とし、厳しい山々で修行し、仏果を得る信仰です。
一方、密教的要素とは、儀式を行って、祈祷したり現世利益を祈る要素があることを指します。密教では護摩をはじめとする色々な宗教儀礼を行いますが、それはインドのバラモン教の神々に祈る儀礼に似ています。
また、密教的な要素として、曼荼羅、密教法具、灌頂(戒律や資格を正統な継承者になるために授ける儀式)における印信(師僧である阿闍梨が秘法を弟子に伝授した証拠の書状)や三昧耶形(さまざまな仏を象徴する物)など象徴的な要素が核となり、それらを授かれば、他者には示してはならないという掟があります。
このように、修験道と密教的要素は、それぞれ特有の特徴と実践を持ち、その中には多くの神秘的な要素が含まれています。
これらの要素は、修行者が霊的な進歩を遂げるための手段として用いられます。そして彼らの信仰対象である山々が、天狗の棲む場所とされ、天狗信仰が発展していきました。
また、天狗は、人間界と異界をつなぐ存在とされ、その力を借りるための祈祷や儀式が行われていました。これらの信仰行為が、各地の天狗伝説を生み出し、それが「日本八大天狗」としてまとめられることになりました。
具体的には、「愛宕太郎坊」、「比良山次郎坊」、「飯綱三郎」、「鞍馬山僧正坊」、「大山伯耆坊」、「大峰前鬼坊」、「白峰相模坊」、「彦山豊前坊」の8つが日本八大天狗とされています。
それぞれが特異な伝説や信仰を持ち、地域の文化や歴史に深く根ざしています。これらの天狗たちは、その地域の人々にとって、恐ろしさと尊崇の念を持って語り継がれてきました。
「大山伯耆坊」
「大山伯耆坊」は日本八大天狗の一つで、鳥取県の名峰・大山(別名:伯耆富士)に住んでいるとされる伝説の天狗です。
大山伯耆坊は、もともと鳥取県の大山町の大山(だいせん)にいたとされています。
しかし、平安時代末期に相模の国大山にいた相模坊が、保元の乱で、四国・讃岐国白峰に遷された崇徳上皇のもとに去った後、その後釜として山移りしたという記述があります。
伯耆坊の山移りの原因について、大山寺衆徒の内乱による荒廃で寺院の荒廃はなはだしく見限ったという説があります。
現在、神奈川県伊勢原市大山(おおやま)には、大山伯耆坊(だいせんほうきぼう)の墓があり、墓は大山寺(おおやまでら)の裏手にあるとされています。碑には、「伯耆坊大天狗大神」と彫られています。
また、大山伯耆坊は、「天狗経」に書かれている四十八天狗に「伯耆大仙清光坊」として名前が挙げられ、八天狗にも名前を連ねています。
大山(標高は1,252m)は古くから山岳信仰の地として知られ、山そのものが石尊大権現(せきそんだいごんげん)、あるいは大山祇神(おおやまつみのかみ)として信仰されています。
阿夫利神社では山頂の岩を御神体として祀り、雨乞いの神として信仰されています。
また、天狗信仰も盛んで、阿夫利神社では大天狗、小天狗の祠があり、数多くの天狗が棲んでいる山としても知られています。
伯耆坊はそれらの天狗たちを取り仕切っている統領であるとされています。
「飯綱三郎」
「飯綱三郎」は日本八大天狗の一つで、長野県の飯綱山(飯縄山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神です。
飯綱三郎は、多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰されました1。特に、上杉謙信の兜の前立が飯綱三郎像であるのは有名です。
その一方で、飯綱三郎が授ける「飯綱法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などと並び、中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していきました。
現在でも、信州の飯綱神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県君津市の鹿野山神野寺、同県いすみ市の飯綱寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されています。
つまり、飯綱三郎は全国的な大天狗であり、地元のヒーローとも言えます。
「比良山次郎坊」
「比良山次郎坊」は日本八大天狗の一つで、滋賀県の琵琶湖の西の湖畔にある比良山に棲んでいる天狗です。
比良山次郎坊は、もともと京都の比叡山に棲んでいた大天狗で、愛宕山太郎坊と並び称されて、天狗の群れを率いて悪戯三昧だったが、天台宗の開祖・最澄が比叡山に延暦寺を建立すると、次々と法力の強い僧侶たちが山にやってきて山を占領したため、配下の天狗を率いて、北に25kmほど離れた滋賀の比良山に引っ越したという。
これは奈良時代から続く修験道と平安時代の仏教の勢力の交代を意味する出来事と言えます。
比良山次郎坊は、「天狗経」に書かれている四十八天狗では太郎坊に次いで2番目に名前が挙げられており、八天狗にも名前を連ねています。
また、単に次郎坊とも呼ばれ、天狗の総大将と言えば、京都の愛宕山太郎坊だが、その弟分とも言われています。
現在でも、比良山次郎坊は地元の人々から深く信仰されています。
比良山は登山者に人気のある山で、その美しい景色と自然が魅力とされています。
「愛宕太郎坊」
「愛宕太郎坊」は日本八大天狗の一つで、京都の愛宕山に棲んでいる天狗です。
愛宕太郎坊は、「日羅坊」や「栄術太郎」とも呼ばれ、多くの眷族を従える日本一の大天狗とされています。日本全国の天狗を取りまとめる惣領ともされており、愛宕山を拠点とする大天狗であり、ここに由来する愛宕権現信仰に絡む形で信仰の対象となっています。
『天狗経』に説かれる四十八天狗の一人でもあり、同じく四十八天狗の一人である富士山陀羅尼坊は「富士山太郎坊(冨士太郎)」という別名もあります。
現在の京都の愛宕山では「愛宕太郎坊」表記の看板が立てられています。
愛宕太郎坊は猪に騎乗し、錫杖を持つ鳥面の天狗として描写されます。
この姿は愛宕権現の本地である勝軍地蔵にも似ています。愛宕権現は勝軍地蔵と同じ姿でも描写され、白馬のほかに猪に騎乗する例があります。
愛宕権現(勝軍地蔵)には翼がなく、人間の顔をしており、愛宕太郎坊天狗との区別は容易です。
『今昔物語』では天竺(インド)の天狗の代表である日羅、中国の天狗の代表である是界と共に役小角の前に現れています。愛宕神社の奥の院にあたる「若宮」に祀られ、若宮太郎坊権現とも呼ばれています。愛宕権現を伊弉冊と同体とする説をとなえる「愛宕山両社
太々百味略縁起」では太郎坊は軻遇突智と同体とされ、本地仏は阿弥陀如来としています。
「鞍馬山僧正坊」
「鞍馬山僧正坊」は日本八大天狗の一つで、京都の鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住んでいると伝えられる大天狗です。
鞍馬山僧正坊は、別名「鞍馬天狗」とも呼ばれ、牛若丸(のちの源義経)に剣術を教えたという伝説で知られています。また、鬼一法眼と同一視されることがあります。
鞍馬寺の鞍馬天狗鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が、鞍馬山僧正坊を配下に置くとされます。
または、鞍馬山僧正坊と同一視します。この教義が現在の形となったのは、鞍馬弘教が天台宗から独立した1949年以降のことです。
「大峰前鬼坊」
「大峰前鬼坊」は日本八大天狗の一つで、奈良県下北山村の前鬼集落に住んでいるとされています。
そもそも大峰前鬼坊というのは、奈良県下北山村に位置する重要な霊場で、修験道の霊峰である大峰山の麓にあります。
この地は、大峰奥駈道の物理的な中間地点に位置しており、修験道の開祖とされる役行者の時代から変わらぬたたずまいを見せており、日本を代表する「聖地の中の聖地」とも言われています。多くの修行者が寝起きを共にしながら山中の岩場や洞窟、滝などで修行を行ってきました。
また、前鬼周辺には、「大峯山七十五靡」と呼ばれる75ヵ所の行や礼拝のための場所が残されています。
大峰前鬼坊の起源は、役行者の弟子である前鬼と後鬼という二匹の鬼にまで遡ります。彼らはもともと人をさらって食べる鬼でしたが、役行者によって説教され、人間の姿に変わりました。
役行者の命により、前鬼と後鬼はこの地で修験者たちを受け入れるようになりました。
その後、前鬼と後鬼の5人の子どもたちがそれぞれ宿坊を開き、田畑を耕しながら大峰奥駈道を行く修行者たちを支え続けました。
現在は、五鬼助家の61代目、五鬼助義之さんが小仲坊だけを維持しています。
また、大峰前鬼坊は日本八天狗や四十八天狗の一尊ともされています。
「白峰相模坊」
「白峰相模坊」は日本八大天狗の一つで、香川県坂出市の五色台の白峯中腹にある真言宗御室派の寺院、白峯寺に関連しています。
白峯寺は、本尊として千手観世音菩薩を祀り、四国八十八箇所の第八十一番札所として知られています。
また、白峯寺は「白峯大権現相模坊」の名でも知られています。
白峯寺の白峯山の守護神として君臨してきたのが、地元で愛着を込めて「さがん坊はん」と呼ばれる相模坊天狗です。
白峯山の相模坊天狗は、「保元物語」「雨月物語」「源平盛衰記」など多くの文献に登場し、鞍馬山の僧正坊(京都)、相模大山伯耆坊(神奈川)などと並ぶ、日本の八天狗として名高いです。
相模坊天狗と崇徳上皇との結びつきは深いとされています。
一一五六年(保元元年)、皇位継承への確執から保元の乱がぼっ発。戦いに敗れた崇徳上皇が西海の国、讃岐の松山に流され、八年後、同地で不遇のうちに四十六歳の生涯を終える。白峯山の相模坊が天狗界で隠然たる地位を確保したのは、崇徳院が亡くなってから、ひたすら院の霊前につかえ霊を慰め、白峯の霊域を守護し、今も守り続けているからだとされています。
「彦山豊前坊」
「彦山豊前坊」は日本八大天狗の一つで、福岡県田川郡添田町の英彦山にある高住神社に関連しています。
彦山豊前坊は、愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊、大山伯耆坊、大峰山前鬼坊、白峰相模坊と並ぶ大天狗であり、彼らは総じて「八天狗」と呼ばれます。
高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされています。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持つとされています。
しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られている。
神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住まう聖地とされたと考えられます。豊前坊は配下の天狗を使って、欲深い者に対しては子供を攫ったり家に火を付けたりして罰を与え、心正しき者には願い事を聞き届けたり身辺を守護したりするとされています。
天狗の歴史
古代中国 | 凶事を知らせる彗星や流星 |
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古代日本 | 神秘的な存在 |
平安時代 | 山に住む物の怪 |
南北朝時代 | 仏敵から怨霊へ |
室町時代末期 | 神もしくは神に近い存在 |
江戸時代(山伏との同一視) | 修験道の影響 |
江戸時代(八大天狗の登場) | 各地に伝わる名高い天狗 |
江戸時代(48天狗の登場) | 全国の霊山から天狗を招聘 |
現代 | 娯楽的キャラクターに |