天狗の変遷
天狗の歴史~古代日本
古代の日本における天狗の起源は、複雑で多様な要素が絡み合っています。
日本最古の記述は、『日本書紀』に見られます。舒明九年(西暦367年)、都の空を東から西へ横切った大彗星を目撃した僧、旻(みん)が、「流星にあらず、これ天狗(アマツキツネ)なり」と述べました。この時点では、中国からの影響を受け、天狗は流星や彗星を指す言葉として認識されていました。
「九年春二月丙辰朔戊寅、大星従東流西。便有音似雷。時人曰、流星之音。亦曰、地雷。
於是、僧旻僧曰、非流星。是天狗也。其吠声似雷耳」
(九年の春二月(きさらぎ)の丙辰(ひのえたつ)の朔戊寅(つちのえのとらのひ)に大きなる星、東(ひむがし)より西に流る。便(すなわ)ち音有りて雷に似たり。時の人の曰はく、「流星の音なり」といふ。亦は曰く、「地雷(つちのいかづち)なり」といふ。是に僧旻僧(みんほうし)が曰はく、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷音に似たるのみ」と)
なお、日本書紀のこの記事の前の舒明天皇七年には彗星の記事が、また、同八年には日蝕や飢饉の記事があり、さらにこの記事の後、同九年の三月には日蝕の記事と蝦夷の反乱の記事が記されています。
このことから、どうやら天狗が日蝕や彗星の出現と同様に、不吉な出来事の予兆と見られていた、あるいは天文の異常が地上の災厄をもたらすと考えられていたことをうかがわせるものと解釈ができそうです。
しかし、その後、日本における天狗の概念は、次第に独自の発展を遂げました。
平安時代(794年~1185年)中期の970年代頃に成立した「宇津保物語」において、天狗の存在が記されるまで、天狗に関する記述はほとんど見られませんでした。
これは、日本書紀の「天狗=流れ星」という中国的な説明が広く受け入れられることなく、天狗の概念が独自に発展する余地を残したことを示しています。
天狗の概念が独自に発展する中で、彼らは単なる流星や彗星の象徴ではなく、神秘的な存在としての性格を帯びるようになりました。
天狗はしばしば山や森に住む妖精や精霊として描かれ、人々の信仰や伝説の中で重要な役割を果たしました。彼らは風の化身と見なされることもあり、その翼や竜巻のような力を用いて、人間界と霊界を行き来するとされました。
天狗の姿は、しばしば大きな鳥のような形をとり、鳥のくちばしや羽毛を持つことが描かれました。
彼らの顔はしばしば赤い鼻や、人間のような特徴を持つこともありますが、一方で鳥や猿のような姿を持つこともありました。
また、大きな扇を持ち、竹の杖を使う姿勢で描かれることもありました。
天狗はしばしば古来よりあった山岳信仰と結びつき、特定の山々に住むと信じられていました。彼らは時には山中で修行をする「仙人」の姿で描かれ、時には人々に祟りを与えたり、試練を与えたりする存在としても描かれました。また、彼らはしばしば武士や僧侶の間で尊敬され、知恵や勇気の象徴として賞賛されました。
一方で、天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられます。また、天狗は、悪巧みをするとされ、俗に人を魔道に導く魔物とされます。
天狗は、日本の伝説や民話においても重要な役割を果たしてきました。
彼らはしばしば人間との交流や戦いを描いた物語の中で登場し、時には敵対的な存在として、時には味方として表現されました。
例えば、有名な天狗の言い伝えとしては「神隠し伝説」があり、山などで行方不明となった人は天狗にさらわれたのだと考えられていました。
天狗の概念は、時代と共に変化し、さまざまな文化や宗教の影響を受けながら、日本の伝統的な信仰や神話の一部として根付いてきました。
彼らは時には恐ろしい存在として描かれ、時には愛らしい存在として描かれることもありますが、彼らの存在は日本の文化において不可欠なものとして位置づけられています。
天狗の歴史
古代中国 | 凶事を知らせる彗星や流星 |
---|---|
古代日本 | 神秘的な存在 |
平安時代 | 山に住む物の怪 |
南北朝時代 | 仏敵から怨霊へ |
室町時代末期 | 神もしくは神に近い存在 |
江戸時代(山伏との同一視) | 修験道の影響 |
江戸時代(八大天狗の登場) | 各地に伝わる名高い天狗 |
江戸時代(48天狗の登場) | 全国の霊山から天狗を招聘 |
現代 | 娯楽的キャラクターに |