古文書に見る鬼の類型
宇治拾遺物語
『宇治拾遺物語』は、平安時代末期に成立した説話集です。作者は不明ですが、序文によると、平安時代中期の公家である源隆国が編纂したとされる宇治大納言物語に漏れた話や、その後の話を書き集めたものということです。
宇治拾遺物語には、貴族や僧侶、武士や盗賊など、さまざまな階層の人々の生活や感情を描いた説話が197話収録されています。天竺や唐などの異国の話や昔話に通じる民話風の話のほか、仏教や道教の教えに基づく因果応報や転生の話や、鬼や妖怪、幽霊などの怪異の話などが収録されています。
宇治拾遺物語における鬼の話は、以下のようなものがあります。
鬼に瘤を取られる事
宇治拾遺物語における「鬼に瘤を取られる事」の話は、鬼と人間の交流や人間の欲望に関する教訓的な物語です。この話には深い寓意が込められており、人間性や欲望の果てに潜む危険性について考えさせられます。
物語は、右の顔に大きな瘤がある老人が山で鬼たちの宴に遭遇するところから始まります。鬼たちは老人に対して舞を踊らせ、その舞によって老人の瘤を質に取ることを提案します。老人は瘤が取れ、喜びますが、物語はここで終わりではありません。
隣人の老人が同じく瘤を取りたいと願い、鬼たちに会いに行きます。しかし、鬼たちは二つの瘤を取ることに決め、老人は瘤を増やされてしまいます。ここで物語は意外な展開を見せ、前半の老人の成功と幸せという一見良い結末が、後半での隣人の失敗と痛みという悲劇へと変わります。
この話は欲望とその結果に焦点を当てています。最初の老人は欲望を叶え、成功を収めますが、隣人は同じ結果を求めて欲望に貪欲になりすぎ、結局は失敗と苦痛を引き寄せます。物語は、欲望や過度な欲には慎重でなければならないと警告し、一つの成功が別の災厄を引き起こす可能性を示唆しています。
寓意的には、物語は欲望の果てに潜む危険性や欲望の過度な追求が自らに災厄をもたらす可能性を教えています。また、成功や幸福は過度な欲望によって後に災厄に変わることがあり、物事には適度な節度が必要であるという教訓を含んでいます。
一条桟敷屋、鬼の事
「一条桟敷屋、鬼の事」は宇治拾遺物語に収められた話で、男が一条の桟敷屋で遊女と一夜を共にしている際に、馬の頭の鬼に遭遇するという出来事を描いています。この物語には、恐怖と勇気、そして人間と鬼との交流における不思議な要素が絡み合っています。
物語は、男が遊女と寝ている最中に馬の頭の鬼が現れるところから始まります。鬼は男に対して「よくも見られたな」と言いながら、格子戸を開けて顔を入れます。しかしこの時、男は怯むことなく太刀を抜いて鬼に立ち向かいます。男の果敢な行動に対して鬼は「よくよく御覧あれ」と言って立ち去ります。
この話は異界と現実が交錯する瞬間を描写しており、鬼と人間との間に生じる奇妙な出会いが強調されています。物語は、一見恐ろしい存在である鬼が、男の果敢な態度によって退散するという意外性を含んでいます。この意外性によって、物語は読者に驚きや興味を与え、単なる怪談ではなく、人間性や勇気についての教訓を含んでいることが伺えます。
物語が問いかけていることは、異界や未知の存在に対してどのように立ち向かうべきかという勇気や決断のテーマです。また、鬼が「よくよく御覧あれ」と言って立ち去る一幕は、見かけの怖さと実際の本質とのギャップを示唆し、物事を冷静に考える重要性を示唆しています。物語全体を通じて、異界との出会いや対峙においても冷静かつ果敢な態度が重要であることが描かれています。
日蔵上人が吉野山で鬼に会った話
「日蔵上人が吉野山で鬼に会った話」は宇治拾遺物語に含まれる興味深い話で、修行中の日蔵上人が吉野山で紺青の鬼に出会う出来事を描いています。この物語は、仏教的な教訓と慈悲のテーマが交錯し、鬼の存在を通して過去の怨念や転生に対する啓示がなされています。
物語は、日蔵上人が吉野山で修行している際に、紺青の鬼に遭遇するところから始まります。驚くべきことに、鬼はかつて人間であり、死後に鬼と化した経緯を日蔵上人に告白します。鬼は恨みを抱いて死んだことが原因で鬼になったとのことで、その怨念や苦しみを背負った存在として描かれています。
日蔵上人は驚きつつも鬼に対して慈悲の心をもち、仏法を説きます。この場面は、日蔵上人が仏教の教えに基づいて慈悲深く行動し、鬼に対して救済の手を差し伸べる様子を描写しています。物語を通して、人間性や慈悲の大切さ、仏法の普遍性が強調されています。
物語が問いかけていることは、怨みや憎しみを抱えた者に対しても慈悲の心をもち、仏法を伝えることで救済することの重要性です。また、鬼がかつて人間であったという要素は、死後の転生や怨念が生じる原因を考えさせ、仏教の輪廻転生と因果応報の教えに触れさせています。
寓意的には、この話は慈悲深さと教えの普遍性に焦点を当て、人間関係や宗教的な理念において他者に対する理解と慈悲が重要であることを示唆しています。
修行者が、百鬼夜行に遭う話
「修行者が、百鬼夜行に遭う話」は宇治拾遺物語に収められた話で、仏道修行の僧が百鬼夜行に遭遇する出来事を描いています。この物語は、修行者が仏法の力を借りて鬼たちと対峙し、その後の出来事を通じて人間と鬼との関係について問いかけています。
物語は、仏道修行者が回国行脚をしている最中、ある晩に無人の寺に泊まる場面から始まります。僧は不動明王の呪を唱えながら修行していると、突如として百鬼夜行が現れます。百鬼夜行は悪意をもって僧に襲いかかりますが、僧は不動明王の呪文によって身を守ります。
鬼たちは最終的には去っていきますが、驚いた僧が寺を見回ると、なんと寺の床が割れ、地獄への入り口が開いていたことに気づきます。百鬼夜行は、僧が呪文で身を守ったことで、自分たちが地獄へと引きずり込まれることを防いだのでした。物語はここで終わります。
この話は、仏法の力が鬼を退ける力を持つと同時に、善悪の判断や人間の行動が予測を超える結果をもたらす可能性を示しています。修行者が善行を積んでいたために百鬼夜行が地獄へと引きずり込まれたことは、行動の果てに予想外の結果が生じることを物語っています。
この物語が問いかけていることは、行為や信仰が予測不能な結果を生むことがあり、それによって人間と非人間(鬼)との関係にどのような影響を及ぼすかということです。また、物語は仏教の教えや呪文の力に対する信仰と、その力がもたらす効果についても考察の余地を残しています。
なお、宇治拾遺物語は、今昔物語集や古本説話集などと多くの同話を含んでいますが、直接の書承関係は認められません。