鬼の類型

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鬼の類型


 『吾妻鏡』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士の争乱を描いた歴史物語です。この書には、源頼朝や北条氏などの鎌倉幕府の武将の事績や、承久の乱や元寇などの戦闘の様子などが記されています。

 鬼に関しては、『吾妻鏡』の建久9年(1198年)8月13日条には、鎌倉幕府の武士が鬼の面をかぶって戦ったという記述があります。この時、鎌倉幕府は、源頼朝の死後に起こった三浦泰村の乱を鎮圧するために、三浦氏の本拠地である三浦半島に出兵しました。
 幕府軍の先陣を務めたのは、北条時政の子である北条義時でした。
 義時は、自分の部下に鬼の面をかぶらせて、敵に恐怖を与えるとともに、自分たちの士気を高める作戦をとりました。鬼は、武士の勇猛さや威厳を表すものとして用いられています。鬼は、武士の戦闘力や戦略を強調するものとして用いられています。

 また、『吾妻鏡』の第四十一巻には、建長3年(1251年)に浅草寺に牛のような妖怪(牛鬼)が突然現れ、法会のために読経中であった僧侶たち50人のうち、24人が悪気を受けて病に侵され、7人がその場で死亡したと記されています。
 浅草寺から立ち去った牛鬼は、その後、隅田川を渡ったところにある牛嶋神社(元は桜橋近くにあったとか)に逃げ込んだとも伝えられるが、真相は不明です。この神社の祭神が、かの牛頭天王の化身ともいわれるスサノオであるというのも、何やら曰くありげで気になるところです。

 ところで、この牛鬼の正体については、同じく『吾妻鏡』に登場する丑御前も牛鬼であるとされています。丑御前は源満仲の子でありながら、菅原道真の怨霊が宿ったと疑われ、兄である頼光の討伐を受けました。丑御前は巨大な化け物と化し、武蔵において7万もの兵と戦ったと伝えられています。丑御前は父・源義仲に忌避されて捨てられた挙句、朝敵とまでみなされて責め立てられたことで、ついに鬼に変貌しました。

 このことから、牛鬼は人々に害を為す鬼であるとされ、その正体は善神である牛頭天王の化身とも言われています。しかし、その具体的な姿や特性は、時代や地域により異なる解釈が存在します。
 例えば、一部の伝承では牛鬼は猿のような顔と虎のような体を持ち、両前脚にはムササビまたはコウモリのような飛膜状の翼があったとされています。

 このように牛鬼の正体は人間の形をした鬼であり、その姿は牛の特徴を持つと考えられます。しかし、その具体的な姿や特性は、さまざまな伝承や解釈により異なる可能性があります。また、その存在は人々の恐怖や畏怖の対象となり、同時にそれを克服するための神聖な存在ともなっていました。
 
 『吾妻鏡』では、鬼は人間の世界と異なる世界の存在として描かれており、人間の感情や行動に影響を与えるとともに、人間の特徴や価値観を象徴するものとして用いられています。
 鬼は、『吾妻鏡』の歴史観や文学性を表現するものとして用いられています。