古文書に見る鬼の類型
貴船の本地
貴船神社は、京都が山背(山城)の国からの水神を祀る社「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として『延喜式神名帳』に記載されています。
また、日本の最高位・正一位の神階を授けられており、分祀が全国に約500社ほどあります。鴨川の水源となるため、京都の水源を守る神として信仰が深まったものと言われています(もとは木生根、木生嶺として山林守護の神として祀られていたという説もあります)。
『貴船の本地』という御伽草子に収録されている『貴布祢雙紙』という説話は、実際に貴船神社に伝わる伝承に基づいていると言われています。
物語のあらすじは次の通りです。
貴布祢雙紙
貴船明神は天下万民の救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に降臨した。その際に御伴として従ったのが仏国童子(牛鬼とも)である
この仏国童子は饒舌で、神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして、貴船を追放されると吉野の山に逃げていったという。
そこで仏国童子は一時的に五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰り、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許されることになった。
なお、貴船神社の社家である舌家では、この鏡岩のところで「屈んで」謹慎をしていたことから、鏡岩を「屈岩」と書いて伝えている。また、この初代・仏国童子の子は僧国童子と名付けられたという。
ある時、仏国童子が"貴船明神の御弓"と"鉄で打った面二寸三分宛の御弓"を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った貴船明神は、童子の手を七筋の鉄の鎖で括ったが、童子は少しも怯まず引きちぎってしまった。そこで、貴船明神は二間四面の大石を膂(背骨)に掛け置いたが、童子はこれも苦としなかったので貴船明神は心を痛めたという。
なお、童子は一日に三升三合の食物を食べる者であったが、百三十歳の時に雷に撃たれて死んでしまった。
二代目・僧国童子は、少年の頃から丹生大明神(貴船大神と同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって怠りなく神勤し、百二歳で亡くなった。
また、僧国童子の子を法国童子と名付け、法国童子の子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていたという。しかし、五代目よりは普通の人の形となり、子孫代々繁昌して大明神に仕えた。
そして、祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗ったという。
なお、貴船神社・本宮の境内社である「牛一社」の祭神は、古伝によれば牛鬼(仏国童子)とされているそうです。
貴船の物語
「貴船の物語」は、都の中将・定時と鬼の国の美しい姫との恋物語です。
中将・定時は、内裏で行われた扇合せの際に、扇の中に描かれた女房の絵姿に恋をしました。その絵姿の女性を探すため、鞍馬の毘沙門天(びしゃもんてん)の加護を得て、鞍馬山の岩穴から鬼の国に入りました。
鬼の国では、大王の娘であり、その美しさは天女にも勝る姫に出会いました。しかし、鬼の大王が中将を差し出せと姫に迫りました。その時、姫は身代わりとなり、中将を守りました3。その後、中将はこの世に戻りました。
中将がこの世に戻った後、彼は伯母の娘と出会いました。この娘は、実は鬼の国の姫の生まれ変わりでした。二人は結ばれ、幸せに暮らしました。しかし、節分の夜に鬼たちが二人を襲いました。その時、中将は毘沙門天の加護によって鬼の国への出入口を封じ、煎り豆で鬼を打ちました。
二人はその後も幸せに暮らしましたが、死後に姫は貴船大明神に、中将は客人神になりました。
この物語は、貴船神社の由来ともされ、節分の豆まきの起源ともされています。
また、この物語は、人々の恋路の守護神として、貴船神社が広く信仰される由来ともなっています。
橋姫伝説
貴船神社は丑の刻参り発祥の地としても知られています。宇治の橋姫が丑の刻参りをして男に呪いをかけた伝承からうまれた「鉄輪」は安部清明も登場する謡曲で、頭に鉄輪をつけ鬼女となった悲しい女性の話ですが、本来の丑の刻参りは祭神が丑年丑月丑日丑刻に降臨した古事に因み、心眼成就すると言うことです。
そのあらすじは以下のようになっています。
嵯峨天皇の御世(809~825年)のこと。
とある公卿の娘が深い妬みに囚われて貴船神社に7日間籠り、「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。すると、これを哀れに思った貴船大明神は「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げた。
そこで女は都に帰ると、髪を5つに分けて5本の角にし、顔に朱をさし、体には丹を塗って全身を赤くした。また、鉄輪(鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さにして頭に乗せ、3本脚に松明を灯し、両端を燃やした松明を口に咥え、計5つの火を灯した。
そして、夜が更けると大和大路を南へ向けて走りだした。
その鬼のような姿を見た人は驚愕して死んでしまったという。女は その様な姿で宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。
橋姫は、"妬んでいた女"、"その縁者"、"男の親族"、終いには誰彼構わず次々と殺していった。なお、男を殺す時は女の姿となり、女を殺す時は男の姿になって殺していったという。そのため、京中の者が申の刻を過ぎると家に人を入れることも、外出することもなくなった。
その頃、源頼光の四天王の一人である源綱(渡辺綱)が一条大宮に遣わされた。
その際に夜は危険ということで、名刀・鬚切(ひげきり)を携えて馬で向かうことにした。
綱が帰り道に一条戻橋を渡ろうとすると、そこで一人の女を見つけた。その女は20歳ぐらいに見え、雪のように白い肌に紅梅色の打衣を纏い、お経を携えて一人で南へ向かっていた。
そこで、綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言い、馬に女を乗せて堀川東岸を南に向かった。正親町の近くまで来ると、女が「家は都の外なのですが、送って下さいませんか」と頼んできたので、綱は「分かりました。お送りしましょう」と答えた。
そのとき、女は鬼の姿に変化して「愛宕山へ行きましょう」と言い、綱の髪をつかんで北西へ飛び立った。しかし、綱は慌てずに名刀・鬚切で鬼の腕を断ち斬った。すると、綱は北野の社(北野天満宮)に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕の方へ飛び去って行った。なお、綱が鬼の腕を取って見ると、雪のように白かったはずが真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていたという。
そこで、その鬼の腕を源頼光に見せると、頼光は大変驚いて安倍晴明を呼んで相談することにした。そして、相談を受けた晴明は、「綱は7日間休暇を取って謹慎して下さい。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、綱は
その通りに謹慎した。