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 八王子城址は、八王子市内から西8キロの地点にあります。

 八王子周辺をめぐる七つの丘は、関東山地の東に連なり、その波状型の丘陵には、鎌倉時代以降、城が次々に築かれていくのでした。
 片倉城、椚田城、浄福寺城、高月城、根小屋城、滝山城、八王子城などが、それぞ八王子城虎口よりれの興亡を繰り広げていきます。
 八王子城の築城は、戦国時代の日本において北条氏一族が勢力を拡大し、相模国に勢力を持つ北条氏康の三男である北条氏照によって行われました。
 氏照は、父である氏康から相模国八王子の地を与えられ、その地に城を築き、拠点としました。1571年(元亀2年)頃に築城が始まり、1587年(天正15年)頃には本拠地として機能しました。築城の際には、織田信長の安土城を参考にしたともいわれています。

 八王子城は、北条氏康の時代に相模国の支配拠点として重要な役割を果たしました。氏康が武田信玄との戦いで多忙だった時期に、氏照は相模国の防衛を任され、八王子城を拠点として領地の統治や軍事活動を展開しました。
 また、氏康が後北条氏との内紛や豊臣秀吉の攻勢にさらされる中、氏照は八王子城を強固な要塞として守り抜きました。
 しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏一族は豊臣軍に敗れ、氏康は降伏しました。八王子城も豊臣方の上杉景勝・前田利家・真田昌幸らに攻められ、激しい戦闘の末、城は1日にして落城しました。これにより、北条氏一族は滅亡し、八王子城は廃城となりました。

 八王子城の構造は、戦国時代の城郭としては典型的なものでしたが、その地形的条件を生かした堅固な防御態勢が整えられていました。城は、高台に位置し、周囲を深い堀や石垣で囲まれていました。主郭や二の丸、三の丸などの曲輪が配置され、それぞれに櫓や門が設けられていました。城内には、住居や蔵などの建物が配置され、氏照や家臣団の居住や軍事活動に使用されました。
 また、八王子城は、その戦略的な位置と堅固な防御態勢から、相模国の中心的な城として機能しました。また、周辺地域の支配を固めるために、城下町が形成され、城の周囲には商業や手工業が発展しました。このことから、八王子城は地域経済や文化の中心地としても重要な役割を果たしました。

 徳川家康によって廃城となりましたが、近年、国の史跡や日本100名城に選ばれ、発掘調査や整備も進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元されています。
 八王子城は、その歴史的な重要性や戦国時代の城郭としての特徴から、現在でも多くの人々に親しまれています。城跡は公園として整備され、歴史ファンや観光客にとって訪れる価値のある場所となっています。

 また、高尾山と谷一つを隔てており、渓間を伝って、小仏、景信、陣馬へのハイキングコースにも通じており、近年、ハイカーの姿をよく見かけるようになりました。

 このサイトでは、八王子城の歴史や城の造り、また、落城にまつわる様々な伝説を紹介しますので、ご興味を持っていただき、八王子城を訪れるきっかけとなれれば幸いです。

八王子城の歴史

 八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上八王子城曳橋の拠点でした。
 標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された山城です。
 深沢山は華厳菩薩妙行が、延喜13年(913年)に山頂で修行した山と伝えられ、修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16年(916年)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられたといいます

■八王子城の築城
 八王子城は、北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠としたといわれています。
 氏照は当初、大石氏の滝山城にその居城を構えていましたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移したといわれています。

■八王子城の落城
 小田原征伐の一環として1590年7月24日(天正18年6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。
 当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠り、最後の殺戮戦と言われる八王子決戦の火ぶたが切って落とされます。

  

八王子城の構造

 縄張りは、北浅川・南浅川に囲まれた東西約3km・南北約2~3kmの広大な範囲に八王子城居館地区及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用し、多層な防衛網が構成されていたようです。
 かなり広大な城域は、山麓の御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している「居館地区」、その東側城山川に沿った麓に城下町を形成した「根古屋(ねごや)地区」、そして山頂に置かれた本丸、松木・小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した「要害地区」、居館地区南側の外郭防衛線「太鼓曲輪地区」などで構成されていたようです。
 加えて、周辺にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には、深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は、5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていたといいます。
 このようにかなり完璧な山城に思えますが、あまりのも広大な城域であったことから、八王子城攻めの際には、まだ防衛網が完成していなかったのではとする説もあります。

  

八王子城落城伝説

 旧暦の天正18年6月23日は、八王子城が落城した日です。  
八王子城本丸に向かう 八王子城がある地元では、この日は、八王子城に足を踏み入れてはならぬ、と言い伝えられてきました。  
 その日はどんなに晴れていても、八王子城のある深沢山だけは霧におおわれ、武者達の叫び声や、軍馬のいななきや鉄砲の音、女達の泣き声が山野に響き渡ると言い伝えられているのです。  今でも地元の方達は城に近寄らず、悲運に散っていった先祖の供養のためにとこの里では落城の日、あずきの汁で米をたき「あかまんま(赤飯)」のならわしを続けてきたといいます。  
 熾烈を極めた合戦は、ここかしこに死体を積み上げ、その血はふもとの川へ下っていきました。 ご主殿の滝には自刃した城方の武将達の妻や子ども、行き場を失ったにわか歩兵の農民たちが次々と身を投げたのです。そのため城山川は、血で真っ赤に染まり、この水で麓の里人達が米を炊くと赤く染まったというのです。  
 城山川には蛭が多いといわれています。そもそもこのような澄み切った川に蛭がいるとは考えづらいのだがこれは壮絶な最期を遂げた兵士の血が化身したものといわれています。

  

本サイトは、以下の文献を参考に記述しました
「決戦!八王子城―直江兼続の見た名城の最期と北条氏照」 (揺籃社ブックレット 6)
「八王子城―みる・きく・あるく」 (揺籃社ブックレット 4)
「乱世!八王子城」 揺籃社 山岩淳
「発掘された八王子城」 八王子市郷土資料館 八王子市教育委員会
「巨大山城八王子城精密ル-トマップ 戦国浪漫 2016年版」揺籃社 堀籠隆
「戦国の終わりを告げた城 : 八王子城を探る」六興 椚国男
「八王子城今昔物語絵図」 揺籃社 前川実

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八王子城トピックス


八王子の名城「八王子城」「滝山城」は令和4年2月11日、登城記念として「御城印」の販売を開始した。御城印の販売は、桑都日本遺産センター八王子博物館のみの取扱となっている。一人各1枚まで購入することができる。購入方法は、日本100名城スタンプ(八王子城)、続日本100名城スタンプ(滝山城)を押印したものなど、現地を訪れたことがわかるものを持参し、指定の販売場所で購入することができる。現地を訪れたことがわかるものが無い場合は、販売場所でのクイズに答えることで購入することができる。