日本における鬼の種類(鬼のデータベース)
日本にはさまざまな種類の鬼が存在し、その理由は単純には言えません。鬼の概念は時代や地域によって異なり、仏教、外来文化、民間信仰の影響を受けて多様化しました。
仏教の伝来により、鬼は餓鬼道や地獄の住人として描かれ、人間の煩悩を象徴する存在となりました。
外来人の影響では、異なる容姿や文化を持つ者が鬼として恐れられました。
また、古くからの民間信仰では、自然や神霊を崇拝し、山の神や雷神が鬼として崇められたり恐れられたりしました。
これらの要因が組み合わさり、鬼は日本の文化や歴史に根付いた存在となり、日本人の感情や価値観を反映する象徴的な存在となりました。このため日本には多くの種類の鬼が存在するといわれています。以下に代表的な鬼たちを紹介します。
(1)酒呑童子(しゅてんどうじ)
最強の鬼、酒呑童子は、丹波国と丹後国の境にある大江山、または山城国と丹波国の境にある大枝(老の坂)(共に京都府内)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目です。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていたとされています。
彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。
東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されています。また、酒呑童子の物語は、多くの芸術作品や文学作品の題材ともなっています。例えば、能楽の「酒呑童子」や歌舞伎の「義経千本桜」などがあります。
(2)茨木童子(いばらきどうじ)
茨木童子は、平安時代に大江山を本拠地に京都を荒らし回ったとされる鬼の一人で、酒呑童子の最も重要な家来であったとされています。
きわめて高い妖力の持ち主で、人に化けるのもお手の物でした。左手に鉤爪、右手に鉄棒を持ち、顔は老婆のようにしわだらけで、髪は白く長いと言われています。
その出生地については、摂津国(大阪府茨木市水尾、または兵庫県尼崎市富松)という説と、越後国(新潟県長岡市の軽井沢集落)という説があります。童子の出生には諸説ありますが、一説によると、茨木童子は人間の子として生まれましたが、生まれながらに牙が生え、髪が長く、眼光があって成人以上に力があったため、一族はこの子を怖れて茨木の里に捨てました。そこで酒呑童子に拾われ、茨木の名をつけて養われました。
ある時、人間の血を舐めたことで本物の鬼になってしまい、酒呑童子とともに京を目指しました。酒呑童子一味は大江山を拠点にし、京の貴族の子女を誘拐するなど乱暴狼藉をはたらいたが、源頼光と4人の家臣たち(頼光四天王)によって滅ぼされ、茨木童子はその時逃げ延びたとされています。
その後、頼光四天王の一人である渡辺綱と一条戻橋や羅生門で戦った故事が、後世の説話集や能、謡曲、歌舞伎などで語り継がれています。
(3)八瀬童子(やせどうじ)
「八瀬童子」は、山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す言葉で、伝説では、天台宗の開祖である最澄が使役した鬼の子孫であると言われています。
八瀬童子の祖先については、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、足利尊氏と争って比叡山に逃れた時、その御輿を担いだという言い伝えがあります。この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事としました。
また、「童子」という言葉は、子どもや普通の人とは違う存在に対しての呼び方でもあり、有名な「酒呑童子」「茨木童子」といった鬼の名前でも使われています。
しかし、「鬼」という言葉は、恐ろしいものや強い力を持つ人智を超えた存在を指すこともあります。また、先住民族や異民族を「鬼」と呼ぶこともありました。そのため、八瀬童子が「鬼の子孫」と呼ばれる理由は、彼らが特異な存在であったからとも考えられます。
(4)鬼一口(おにひとくち)
鬼一口は、日本の説話において、鬼が一口で人間を食い殺すことを指します。平安時代初期の歌物語『伊勢物語』第6段の「芥川の段」に登場する話が代表的です。ある男が何年も女のもとへ通い続けていたが、身分の違いからなかなか結ばれることができなかった。
あるとき、男はついにその女を盗み出したが、逃走の途中で夜が更けた上に雷雨に見舞われたために、戸締りのない蔵を見つけて女を中へ入れ、自分は弓矢を手にして蔵の前で番をして、夜明けを待った。やがて夜が明けて蔵の中を覗き見ると、女の姿はどこにもなかった。女はその蔵の中に住んでいた鬼に一口で食い殺され、死に際に上げた悲鳴も雷鳴にかき消されてしまったという。
(5)天邪鬼(あまのじゃく)
天邪鬼は、仏教において人間の煩悩を表す象徴とされています。四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼、また四天王の一である毘沙門天像の鎧の腹部にある鬼面とも称されます。
日本古来の天邪鬼は、記紀にある天稚彦(アメノワカヒコ)や女神天探女(アメノサグメ)に由来します。天稚彦は葦原中国を平定するために天照大神によって遣わされたが、務めを忘れて大国主神の娘を妻として8年も経って戻りませんでした。天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができるシャーマン的な存在とされており、この説話が後に、人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼へと変化していったようです。
また、「天稚彦」は「天若彦」や「天若日子」とも書かれるため、仏教また中国由来の「海若」と習合されるようになったものと考えられています。
天邪鬼は仏教や日本の神話、民間伝承など、様々な文化的背景を持つ存在と言え、それぞれの文化において、天邪鬼は人間の心の動きや煩悩を象徴する存在として描かれています。また、現代では「他者(多数派)の思想・言動に逆らうような言動をする"ひねくれ者"、“つむじ曲がり”」を指して、「あまのじゃく(な人)」と称されるようになりました。
(6)鬼童丸・鬼同丸(きどうまる)
鬼童丸、または鬼同丸は、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』などに登場する鬼です。源頼光の有力な郎党で、坂田公時、平貞道、平季武とともに頼光四天王とよばれます。頼光の命を奪おうと牛の皮を被り、待ち伏せて奇襲をかけようとしますが、見破られて退治されます。また、酒呑童子に囚われていた人間の女性が産んだ子だとも言われます。
この説明文は、『古今著聞集』の第十六巻「鬼童丸事」に基づいています。『古今著聞集』は、鎌倉時代初期に成立した説話集で、歴史的事実と伝説的要素が混ざったものが多く含まれています。『古今著聞集』の第十六巻「鬼童丸事」は、以下のような内容です。
鬼童丸は、酒呑童子に囚われていた人間の女性が産んだ子で、鬼の姿をしていました。酒呑童子は、鬼童丸を自分の後継者として育てましたが、鬼童丸は人間の心を持っていました。
鬼童丸は、酒呑童子が源頼光に討たれた後、頼光に仕えることになりました。頼光は、鬼童丸の力と忠誠心を認めて、四天王の一人にしました。
鬼童丸は、頼光の命を狙う鬼たちの間にも信望がありました。ある日、鬼たちは、鬼童丸に頼光の首を取るように命じました。鬼童丸は、鬼たちの命令に従うふりをして、牛の皮を被り、頼光の通る道に待ち伏せしました。
鬼童丸は、頼光の馬車が近づくと、牛の皮を脱いで、頼光に襲いかかりました。しかし、頼光は、鬼童丸の正体を見破って、刀で斬りつけました。鬼童丸は、頼光に許しを請うて、息絶えました。頼光は、鬼童丸の死を悲しみました。
この話は、『古今著聞集』の他にも、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などにも収録されています。しかし、それぞれに細部の違いがあります。例えば、鬼童丸の名前は、鬼同丸や鬼童とも呼ばれたり、鬼童丸が頼光に仕えるようになった経緯や鬼童丸が頼光に襲いかかった理由などが異なったりします。また、鬼童丸の話は、源頼光の鬼退治の話の一部として語られることが多く、鬼童丸の人物像や性格については、あまり詳しく描かれていません。
(7)目一鬼(まひとつおに)
目一鬼は、『出雲国風土記』に登場する一つ目の人食い鬼です。この鬼自体に正式な名前はありませんが、一つ目であったことから目一鬼と呼ばれています。日本に現存する文献の中では最古の鬼です。また、出雲地方で盛んであった製鉄の神様で、一つ目の神様ですが、焼けた鉄を見つめている内に視力を失った人の象徴ではないか、と一般に言われています。
(8)牛鬼(うしおに、ぎゅうき)
牛鬼は、西日本に伝わる妖怪で、主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされています。各地で伝承があり、その大半は非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝えられています。伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある。また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある。ただし、その中の一部には悪霊を祓う神の化身としての存在もいるとされています。
また、牛鬼の伝説は地域によって異なり、一部の地域では牛鬼が人間に化けて人を助けるという珍しい話もあります。例えば、三尾川の淵の妖怪譚では、牛鬼が人間に化け、さらに人間を助けるという話があります。青年が空腹の女性に弁当を分けたところ、その女性は淵の主の牛鬼の化身で、2ヶ月後に青年が大水で流されたときに、牛鬼に姿を変えたその女性に命を救われました。しかし、牛鬼は人を助けると身代りとしてこの世を去るという掟があり、その牛鬼は青年を救った途端、真っ赤な血を流しながら体が溶けて、消滅してしまったという話があります。
(9)牛頭(ごず)
牛頭は、仏教において地獄で罪を償う者たちを監視・苛む獄卒とされる存在です。その姿は、頭が牛で体が人の形をしているとされ、しばしば馬面とセットで言及されることもあります。この存在は、仏典や仏教の伝統において、生前に悪業を積んだ者たちが死後に受ける罰を象徴しています。
牛頭は主に地獄の中で、罪を犯した者たちを監視し、苦しめる役割を果たします。彼らは仏教の教えに基づいて、生前に悪業を積んだ結果として、死後に苦しむ宿命にあるとされています。牛頭の存在は、生死輪廻(輪廻転生)や因果応報の概念に基づいています。仏教では、個々の行為がその者の将来に影響を与え、良い行いが幸福をもたらし、悪業が苦しみをもたらすと考えられています。
牛頭の存在は、悪業の結果としての苦しみを通じて、仏教の教えを強調しています。同時に、これらの教えは慈悲と改心に向けられ、罪を償い清めることで輪廻の苦しみを断ち切る機会を与えるものとされています。
牛頭は仏教の教えや地獄の概念が文学や芸術に影響を与え、さまざまな表現で描かれてきました。絵画や彫刻、仏教の説話などで、牛頭が生死輪廻の一環として描かれ、教訓や戒めとして利用されることがあります。総じて、牛頭は仏教の教えの一環として、悪業によって生ずる苦しみや罰を象徴し、同時に慈悲と改心の重要性を強調する存在とされています。
(10)馬頭(めず)
馬頭は、地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、頭が馬、体は人の形をした存在を指します。また、馬頭天王として祇園精舎の守護神とされ、疫病を司る神とされています1。さらに、陰陽道では天道神とされ、天刑星、吉祥天の王舎城大王、商貴帝と同一視されています頭が馬で首から下が人間の姿をした地獄の獄卒。
(11)熊童子(くまどうじ)
熊童子は、丹波国の大江山に住んでいたとされる大江山四天王の一鬼で、酒呑童子の配下です。鈴鹿山の大嶽丸、那須野原の妖狐玉藻前(白面金毛九尾の狐)と並んで日本三大妖怪に数えられる大江山の酒呑童子の配下として、都に出没しては悪事を働いていたとされています。
その後、都から来た源頼光と家臣の頼光四天王によって酒呑童子共々退治されたとされています。全体的な伝わった記述は少なく、同じ配下である虎熊童子、星熊童子、金童子と共に大江山四天王の一鬼として扱われていました。
(12)虎熊童子(とらくまどうじ)
虎熊童子は、丹波国の大江山に住んでいたとされる大江山四天王の一鬼で、酒呑童子の配下です。鈴鹿山の大嶽丸、那須野原の妖狐玉藻前(白面金毛九尾の狐)と並んで日本三大妖怪に数えられる大江山の酒呑童子の配下として、都に出没しては悪事を働いていたとされています。
その後、都から来た源頼光と家臣の頼光四天王によって酒呑童子共々退治されたとされています。全体的な伝わった記述は少なく、同じ配下である熊童子、星熊童子、金童子と共に大江山四天王の一鬼として扱われていました。
(13)星熊童子(ほしくまどうじ)
星熊童子は、丹波国の大江山に住んでいたとされる大江山四天王の一鬼で、酒呑童子の配下です。鈴鹿山の大嶽丸、那須野原の妖狐玉藻前(白面金毛九尾の狐)と並んで日本三大妖怪に数えられる大江山の酒呑童子の配下として、都に出没しては悪事を働いていたとされています。
その後、都から来た源頼光と家臣の頼光四天王によって酒呑童子共々退治されたとされています1。全体的な伝わった記述は少なく、同じ配下である熊童子、虎熊童子、金童子と共に大江山四天王の一鬼として扱われていました。
(14)金熊童子(かねくまどうじ)
金熊童子は、丹波国の大江山に住んでいたとされる大江山四天王の一鬼で、酒呑童子の配下です。鈴鹿山の大嶽丸、那須野原の妖狐玉藻前(白面金毛九尾の狐)と並んで日本三大妖怪に数えられる大江山の酒呑童子の配下として、都に出没しては悪事を働いていたとされています。
その後、都から来た源頼光と家臣の頼光四天王によって酒呑童子共々退治されたとされています。全体的な伝わった記述は少なく、同じ配下である熊童子、虎熊童子、星熊童子と共に大江山四天王の一鬼として扱われていました。
(15)悪鬼(あっき)
悪鬼は、日本や中国・朝鮮半島などに伝わる人間たちに対して悪をばらまく鬼たちの総称のひとつで、邪鬼(じゃき)、悪魔などとも総称されます。
これらの鬼は、古代の信仰や伝説に基づいており、しばしば人々の畏怖や不安を反映しています。悪鬼の概念は、異なる時代や地域で異なる形を取りながらも、一貫して悪意や災厄をもたらす存在として描かれています。
悪鬼に対する信仰は、人々による悪鬼の存在への恐れから生まれ、儀式やまじないを通じて彼らの撃退や退散を試みることが行われました。
大規模な流行病の発生時には、悪鬼に対する儀式が集団で行われ、祈りや供物を通じて悪鬼を鎮めようとする試みが行われたでしょう。
近代以降においては科学的な医療の進歩に伴い、悪鬼の概念が徐々に衰退していった可能性も考えられます。
(16)羅城門の鬼(らしょうもんのおに)
羅城門の鬼は、平安京の正門・羅城門に巣食っていたとされる鬼で、室町時代の謡曲『羅生門』などに登場します。
源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出しました。
四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かいました。
綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれました。すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われました。
綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落としました。
鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。
(17)霊鬼(れいき)
霊鬼は、死者の霊を指し、特にその悪鬼と化したものを指します。これは怨霊や悪霊とも呼ばれます。霊鬼は超感覚的な宗教的存在で、怪異、悪霊、死神などを指し、広義には精霊、霊魂をも意味します。これらの霊鬼は、人間の世界に災厄をもたらすとされ、特に病気や流行病は霊鬼の仕業とされています。人々は儀式やまじないを行い、霊鬼の退散を祈ることがあります。
(18)邪鬼(じゃき)
邪鬼は、仏教の教えに反する者や仏教の敵として、四天王によって制圧されることで、仏教の権威や威力を示す象徴として用いられました。四天王は、仏教の守護神として、四方を護るとされています。四天王の足下に踏まれている邪鬼は、四天王の力の前に屈服した邪鬼として、仏教の教えに従う者に対する警戒や戒めとして描かれました。
邪鬼は、四天王の一人である毘沙門天の足下にいるものを特に天邪鬼と呼ぶという説がありますが、これは、毘沙門天が邪鬼を制圧することで、その名声や功徳を高めたという考えに基づくものです。毘沙門天は、仏教の守護神としてだけでなく、財宝や富や幸運の神としても信仰されています。毘沙門天の足下にいる天邪鬼は、毘沙門天の恩恵を受けることができるという考えもあります。
邪鬼は、たたりをなす神や物の怪、怨霊などの総称としても使われますが、これは、仏教の教えに反する者や仏教の敵として、邪鬼と同じくらい恐れられたり嫌われたりしたからです。邪鬼は、邪気と同じくらい古くから日本に伝わる言葉で、平安時代の文献にも見られますが、邪気は、不浄や不吉な気や力として、抽象的に表現されることが多いです。邪鬼は、邪気とは異なり、具体的な存在として描かれることが多いですが、これは、仏教の影響によって、邪気が具現化されたものと考えられるからです。
この説明は、『仏教大辞典』や『日本民俗大辞典』などの仏教や民俗に関する辞典に基づいていますが、それらの辞典は、仏教や民俗の用語や概念を解説するものであり、歴史的事実や伝説的要素が混ざったものが多く含まれています。
(19)羅刹(らせつ)
羅刹とは、インド神話における鬼神のことで、大力で足が速く、人を惑わし、人を食うとされる悪魔や魔物です。
仏教では、羅刹は毘沙門天の眷属として仏法を守る守護神となり、羅刹天と呼ばれて十二天の一つに数えられます。
羅刹天は、全身黒色で髪の毛だけが赤く、鎧を身につけ、左手に剣印を結び、右手に刀を持つ姿で描かれます。
羅刹天は、西南の方角を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれます。羅刹の男は醜く、女は美しいとされ、羅刹女と呼ばれることもあります。羅刹女は、法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女や、孔雀経に列記される72の羅刹女など、さまざまな仏典に登場します仏教においては護法善神の1人とされる種類です。毘沙門天に仕える神とされている。
(20)夜叉(やしゃ)
夜叉とは、インド神話における鬼神の一種で、人を惑わせたり食べたりする悪魔や魔物です。仏教では、夜叉は毘沙門天の眷属として仏法を守る守護神となり、夜叉天と呼ばれて十二天の一つに数えられます。夜叉天は、全身黒色で髪の毛だけが赤く、鎧を身につけ、左手に剣印を結び、右手に刀を持つ姿で描かれます。夜叉天は、北方を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれます。夜叉には男と女があり、男はヤクシャ、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれることもあります。夜叉は、日本語や中国語などでは「凶悪な人間」の比喩として使われることもあります。
(21)獄卒(ごくそつ)
獄卒は、仏教の経典にも登場する地獄の鬼で、亡者の罪に応じて様々な責め苦を与えます。獄卒の代表的なものに、牛の頭をした牛頭と馬の頭をした馬頭があります。牛頭馬頭は、亡者を地獄に連れて行き、閻魔王の裁判にかけます。また、亡者を切り刻んだり、焼いたり、凍らせたり、煮たり、縛ったり、刺したり、噛んだり、引き裂いたりするなど、想像を絶する苦痛を与えます。
獄卒は、亡者に対して「これは自分の悪業の報いである」と言って、悔い改めさせようとします。しかし、亡者は獄卒の言葉に耳を貸さず、苦しみの中で怨みや恨みを増やしてしまいます。そのため、亡者は地獄から抜け出すことができず、永遠に苦しみ続けることになります。獄卒は、亡者の救済のために仏法を守る守護神として働いているとも言われますが、亡者にとっては恐ろしい存在です。
(22)餓鬼(がき)
餓鬼とは、仏教において、六道の一つである餓鬼道に生まれた者のことです。餓鬼は、生前の悪行や貪欲な性質の報いとして、常に飢えと渇きに苦しみます。餓鬼の咽喉は針のように細く、腹は山のように膨れています。食べ物や飲み物を手に入れようとしても、炎や毒に変わってしまったり、獄卒に奪われたりします。餓鬼には、無財餓鬼、少財餓鬼、多財餓鬼の三種類があり、それぞれ食べられるものや苦しみの程度が異なります。餓鬼は、施餓鬼会や盂蘭盆会などの供養によって救われることができます。
(23)子鬼(こおに、しょうき)
小型の鬼、もしくは子供の鬼のこと。日本の伝説や昔話に登場することがあります。例えば、鬼丸という刀の説話では、小鬼が鍛冶屋に助けられて感謝の印に刀を作るという話があります。また、仏教においては、四天王や執金剛神に踏まれている悪鬼のこと。これらの鬼は、仏法を犯す邪悪な神や霊として、四天王によって懲らしめられています。天邪鬼や羅刹などがこの種類にあたります。
(24)鬼神(きしん)
鬼神とは、中国や日本の伝統的な思想や信仰において、荒々しく恐ろしい神のことです。鬼神は、死者の霊魂や天地の神霊を指す場合もありますが、一般には人間に禍や災いをもたらす悪鬼や妖怪をさします。鬼神は、人間の行いや心によって善悪に分かれ、祭祀や祈祓の対象となります。鬼神は、超人的な能力や威力を持ち、変化や魔法を使うことができます。鬼神は、陰陽師や道士などの呪術師によって使役されることもあります。鬼神は、仏教や密教にも影響を与え、羅刹や十二神将などの仏教的な神霊としても表現されます。
鬼神が祟るということは、鬼神が人間に対してその神威や怒りを示すときに、暴力的な形で現れることです。鬼神が祟る原因は、人間が鬼神に対して不敬や冒涜をしたり、鬼神の住む場所や自然を破壊したり、鬼神の恨みや怨みを買ったりすることです。鬼神が祟る結果は、人間に病気や事故や災害や死などの重大な不幸をもたらすことです。鬼神の祟りを防ぐためには、鬼神に対して敬意や供物を捧げたり、鬼神を鎮めるための呪文や護符を用いたり、鬼神を退治するための勇者や呪術師を頼ったりすることです。
(25)三吉鬼(さんきちおに)
三吉鬼は、秋田県の太平山に伝わる鬼の一種で、江戸時代の女流文学者・只野真葛の著書『むかしばなし』に記述があります。三吉鬼は、好物の酒を飲みに酒屋に現れ、代金を踏み倒して去っていくという行動をとりますが、その本質は親切で力持ちの存在です。酒代の10倍の薪を届けたり、大松を移植したり、大名の頼み事を引き受けたりするという逸話があります。
三吉鬼は、太平山に祀られている三吉霊神という土着神の一側面とも考えられており、力や勝負事を司る神として信仰されています。三吉鬼は、文化年中より30-40年ほど前からは人里に現れなくなったと言われています。
(26)縊鬼(いき、いつき、くびれおに)
縊鬼は、中国や日本の伝承において、人に取り憑いて首を括らせるとされる悪霊や妖怪のことです。縊鬼は、自分と同じ死に方をした者を求めて、生者に憑依して自殺に追い込むといわれます。縊鬼は、中国では「いき」と読み、冥界の人口を保つために鬼求代という行為をするとされます。
日本では「いつき」と読み、水死者の霊や首吊り自殺した者の霊とされます。縊鬼に憑かれた者は、夢うつつの状態になり、縊鬼の言葉に従って首を括ろうとします。縊鬼の祟りを防ぐには、縊鬼に対して敬意や供物を捧げたり、呪文や護符を用いたり、縊鬼を退治する者を頼んだりする必要があります。縊鬼は、仏教や密教にも影響を与え、羅刹や十二神将などの仏教的な神霊としても表現されます。
(27)前鬼(ぜんき)
前鬼は、修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼のうち、夫の方です。
前鬼は、赤鬼で鉄斧を持ち、役小角の前を進んで道を切り開いたといわれます。本名は義覚とも言われます。前鬼は、元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた鬼でした。役小角は、彼らの5人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えました。前鬼と後鬼は改心し、役小角に従うようになりました。
役小角は、彼らに義覚・義玄という名を与えました。彼らが捕らえられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にあります。前鬼は、後に大峯山脈の釈迦ヶ岳や大日岳の南東斜面にある前鬼という地区に住みました。この地には彼の墓もあります。
前鬼は、5人の子供を作りました。名は真義、義継、義上、義達、義元です。彼らは五鬼と呼ばれ、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号としました。彼らは宿坊を開き、大峯奥駈道を行く修行者たちを支えました。
前鬼は、後に天狗となり、日本八天狗や四十八天狗の一尊である大峯山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったともされています。前鬼坊は、全身黒色で髪の毛だけが赤く、鎧を身につけ、左手に剣印を結び、右手に刀を持つ姿で描かれます。前鬼坊は、北方を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれます。
(28)後鬼(ごき)
後鬼は、修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼のうち、妻の方です。後鬼は、青鬼で水瓶を持ち、役小角の後ろをついて理水をまいたといわれます。本名は義玄とも言われます。後鬼は、元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた鬼でした。役小角は、彼らの5人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えました。前鬼と後鬼は改心し、役小角に従うようになりました。
役小角は、彼らに義覚・義玄という名を与えました。彼らが捕らえられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にあります。
後鬼は、後に大峯山脈の釈迦ヶ岳や大日岳の南東斜面にある後鬼という地区に住みました。この地には彼女の墓もあります。後鬼は、5人の子供を作りました。名は真義、義継、義上、義達、義元です。彼らは五鬼と呼ばれ、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号としました。彼らは宿坊を開き、大峯奥駈道を行く修行者たちを支えました。
後鬼は、後に天狗となり、日本八天狗や四十八天狗の一尊である大峯山後鬼坊(那智滝本後鬼坊)になったともされています。後鬼坊は、全身青色で髪の毛だけが黒く、鎧を身につけ、左手に水瓶を持ち、右手に水印を結ぶ姿で描かれます。後鬼坊は、南方を守護し、手にした水で煩悩を清めるといわれます。
(29)阿久良王(あくらおう)
阿久良王は、日本の伝説に登場する妖鬼の大将で、岡山県倉敷市の瑜伽山に住んでいました。彼は三人の家来(東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎)とともに、村に出ては田畑を荒らしたり、物を盗んだり、女をさらったりするなどの悪事を働いて人々を苦しめていました。このことを聞いた朝廷は、都で一番強いと言われた坂上田村麻呂を鬼退治に派遣しました。田村麻呂は通生の浦に船を着けて吉備国に上陸し、神宮寺八幡院で七日七夜に渡って鬼退治の祈願をしました。
その後、竜王山を越えて瑜伽山へと向かいましたが、途中で神の峰に金の甲を埋めたという伝説があります。瑜伽山に着くと、田村麻呂は阿久良王とその家来たちと激しい戦いを繰り広げました。阿久良王は変化や魔法を使って田村麻呂を苦しめましたが、田村麻呂は神の加護と霊酒の力で阿久良王に勝利しました。阿久良王は死の間際に悪行を悔いて改心し、瑜伽大権現の神使となって人々を助けたいと願いました。
その後、田村麻呂に首を斬られると、金色の光を放って飛び散り、七十五匹の白狐になって瑜伽大権現に仕えるようになりました。阿久良王の首は近くの鬼塚に埋められ、その墓は今でも見ることができます。阿久良王の白狐は、由加神社本宮の神使として信仰されています。
(30)温羅(うら/おんら)
温羅は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼で、鬼ノ城を拠点として一帯を支配していたといわれています。温羅は、目は野獣のように輝いていて凶悪な顔つきをしており、髭と髪は炎のように赤く伸びている異様な外見をしていました。また、身長は四メートルを超えていて怪力の持ち主で、空が飛べたり、変化や魔法を使えたりするとされています。温羅の出自については、文献によって異なりますが、出雲や九州や朝鮮半島南部などの異国から吉備にやってきたという説があります。温羅は、製鉄技術を吉備地域にもたらし、鬼ノ城を築いてそこに住みました。温羅は、その一帯を「吉備冠者」という名で支配し、人々に災いをなしていました。
吉備の人々は、この窮状を都に訴えましたが、都が派遣した武将たちは温羅に敵わず、倒すことができませんでした。そこで、今度は第7代孝霊天皇の皇子である五十狭芹彦命を派遣することにしました。五十狭芹彦命は、吉備津神社を本拠地として温羅と戦いましたが、温羅は石を投げて矢を撃ち落としたり、雉や鯉に化けて逃げたりしました。しかし、五十狭芹彦命は鷹や鵜に化けて追いかけて、ついに温羅の左眼を射抜き、捕らえることに成功しました。
温羅は、死の間際に悪行を悔いて改心し、五十狭芹彦命に「吉備冠者」の名を献上しました。これにより、五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになりました。温羅の首は、さらされることになりましたが、その首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げました。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬に首を食わせて骨としましたが、静まることはありませんでした。次に吉備津彦命は吉備津神社の釜殿の地中深くに骨を埋めましたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響きました。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げました。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まりました。その後、温羅は吉凶を占う存在となり、吉備津神社の鳴釜神事に関わるようになりました。
(31)金平鹿(こんへいか)
紀伊国熊野の海を荒らし回った鬼の大将です。文献によっては、海賊多娥丸などとも記されています。熊野灘の鬼の岩屋を本拠として棲み、数多くの鬼共を部下にしていたといわれます。金平鹿が住処としている岩屋(鬼ヶ城)は断崖絶壁で近づきがたく、郷民は困っていました。平安時代の平城天皇のころ、坂上田村麻呂は、鬼の金平鹿を討伐をするため、紀伊国に入ります。坂上田村麻呂は、金平鹿のいる岩屋へと船を近づけます。鬼の大将である金平鹿は、「田村麻呂は観音のご加護があるので、我々の神通力が効かない」と考えます。金平鹿は用心深く、岩屋の石の戸を閉じ、岩屋の中にこもります。坂上田村麻呂が困惑していると、沖の島に一人の菩薩のような童子が現れました。童子は「私と一緒に舞いましょう」と坂上田村麻呂の軍勢に語り、舞を踊ります。金平鹿は外の異変に気付き、石の戸を開けて、顔を出しました。
坂上田村麻呂は、その隙を逃さず、童子から授かった弓で矢を放ちます。坂上田村麻呂が放った矢は、金平鹿に突き刺さりました。大将を討たれた手下の鬼たち800人は、一斉に坂上田村麻呂に襲い掛かかります。しかし、坂上田村麻呂が放つ千の矢によって、鬼たちはことごとく倒れました。戦いが終わると、千手観音の化身だった童子は、光を放ち飛び去りました。
その後、童子が現れた島は「魔見るか島(魔見ヶ島)」と呼ばれ、現在に語り継がれます。
(32)藤原千方の四鬼(ふじわらのちかたのよんき)
藤原千方の四鬼は、三重県津市などに伝わる伝説の鬼ですこの四鬼は、金鬼(きんき)、風鬼(ふうき)、水鬼(すいき)、隠形鬼(おんぎょうき)と呼ばれ、それぞれ特殊な能力を持っていました。金鬼は、どんな武器でも弾き返すほどの堅い体を持っていました。風鬼は、強風を起こして敵を吹き飛ばすことができました。水鬼は、どんな場所でも洪水を起こして敵を溺れさせることができました。隠形鬼は、気配を消して敵に奇襲をかけることができました。これらの四鬼は、藤原千方が使役し、朝廷に反乱を起こしました。
しかし、紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散し、藤原千方は滅ぼされました。また、この四鬼は、忍者の原型であるともされています。他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっているものもあります。さらに、四鬼の伝承は、それから幾年か後のこと、四鬼は奥州南部岩手郡に再び現れ、千方の仇を晴らそうと、鬼たちが決起したと伝えられています。ただし、この時は、田村丸こと坂上田村麻呂が5万8千もの大軍を率いて攻撃し、四鬼は討ち取られました。
(33)阿用郷の鬼(あよのさとのおに)
阿用郷の鬼は、『出雲国風土記』大原郡阿用郷の条(郷名由来譚)に登場する一つ目人食いの鬼で、日本に現存する文献で確認できる最古の鬼の記述とされています。この鬼は「目一鬼(まひとつおに、めひとつのもの)」と記されていますが、鬼自体に名称はありません。阿用郷は、島根県雲南市に阿用の地名が遺るように、阿用川流域から赤川南岸にかけて設けられていました。この地域で、ある人が山田を耕作していたところ、目一つの鬼が来て、耕作をしていた人の男を食ったという伝説があります。
その男の父母は竹原の中に隠れ籠り身をひそめていたが、竹の葉がかすかに揺れ動いたため、それを見た鬼に食われてしまいました。その男が「動動(あよ、あよ)」と言ったことから、この地は阿欲と名付けられ、後に神亀三年(726年)に郷名を「阿用」と改められました。阿用郷の鬼については、異種族人の身体的特徴を表現したもので、鍛冶の祖神が天目一箇神とされる事との関連を指摘する説があります。
また、鬼が農民の男を食らう展開から、この物語に製鉄集団と農耕集団が対立していたという歴史的背景を想定する説もあります。
さらに、阿用郷の鬼自体に鉄を生産する人々との関連性を見いだせなくとも、『播磨国風土記』託賀郡の記事から、農具の技術を向上させた鉄に関わる神=開墾での豊穣の神と見られる天目一命と、阿用郷の鬼は同系統に連なる神であり、食われた男は農耕儀礼における神への供儀となる子だとする説もあります。
(34)鈴鹿御前(すずかごぜん)
鈴鹿御前(すずかごぜん)は、伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたという伝承上の女神・天女です。彼女は鈴鹿姫、鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿神女などとも記されています。後世には、鈴鹿山の盗賊立烏帽子(たてえぼし)とも同一視され、女盗賊・鬼・天の魔焔(第六天魔王もしくは第四天魔王の娘)とも記されています。その正体は伝承や文献により様々であり、室町時代以降の伝承はそのほとんどが田村語り並びに坂上田村麻呂伝説と深く関係しています。平安時代の征夷大将軍としても高名な大納言坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物・坂上田村丸と夫婦となって娘の小りんにも恵まれました。
また、鈴鹿御前は、鈴鹿山の神を鈴鹿姫と称して鈴鹿峠の東西や峠上に祀っていたものと考えられています。鈴鹿の地は斎王の群行が途中に設けた鈴鹿郡の頓宮が置かれ、豊かな水に恵まれていたことから斎宮が禊を行う鈴鹿禊の聖地であり、のちに巫覡の徒(修験山伏・陰陽師・巫女)が祓えをおこなった神聖な地となりました女の鬼の中でも特に有名です。鈴鹿御前は室町時代の後期に登場しました。
(35)鬼女(きじょ)
鬼女(きじょ)は、日本の伝承における女性の鬼です。一般には人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものとされ、中でも若い女性を鬼女といい、老婆姿のものを鬼婆という。また、鬼女は女の姿をした鬼であり、心が鬼のように残酷非情な女ともされます。
(36)般若(はんにゃ)
般若(はんにゃ)は、サンスクリット語の「プラジュニャー」やパーリ語の「パンニャー」に由来する仏教用語で、「仏の智慧(ちえ)」を意味します。これは、さまざまな修業を積み、その結果得られる悟りを指します。般若は、事象を分析・判断する識から出発し、識を超越して存在のすべてを全体的に把握できる智慧であり、般若によって仏陀となることができるとされています3。また、般若は仏教の悟りを開くために必要な6つの善行である「六波羅蜜(ろくはらみつ)」の中の1つです。
なお、般若という言葉は、一部の人々にとっては人に強い恨みを抱きながら死んだ女性が死んだ後に鬼になったものとして恐ろしい形相の鬼の面を思い浮かべることがあります。これは、能の演目で使われる鬼女の面が「般若の面」と呼ばれることに由来します。三従の美徳が説かれた封建社会にあって、美しくありたいと願う女性が鬼となるということの中に、もっとも弱く、もっとも屈服せざるを得なかったこの時代の女性の心や苦悶の表情を読みとることができます。般若は、そうした心の内面が、破壊にむかう相を形象化したものといわれますが、般若は、鬼となりながら人間的な心をすてることのできない女の情念や、出口のなかった中世の民衆たちの心が、哀切な叫びをあげているように見えます。しかし、前述のとおり本来の般若に怖い意味はありません。
(37)鬼婆(おにばば)
鬼婆は、日本の伝承における女性の鬼です。一般的に人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものが鬼女で、その中で老婆姿のものを「鬼婆」という。また、鬼婆は女の姿をした鬼であり、心が鬼のように残酷非情な女ともされます。
例えば、『奥州安達が原ひとつ家の図』に描かれている「安達ヶ原の鬼婆」は、安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという伝説があります。また、映画『鬼婆』は、新藤兼人が監督した1964年の日本のホラー映画で、仏教説話が元になっており、14世紀の日本の田舎の村が舞台になっています人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したもの老婆姿。
(38)山姥(やまうば、やまんば)
山姥(は、日本の伝承における女性の妖怪で、奥山に住むとされています。その見た目は白髪で着物姿の老女とされており、山奥で道に迷った旅人を自宅へ誘い込み、寝静まった夜中に食い殺してしまうと言われています。山姥の正体は地方により異なりますが、一般的には山間を生活の場とする人々であるとも、山の神に仕える巫女が妖怪化していったものとも考えられています。
また、山姥は人間を害する恐ろしい存在であるだけでなく、人間に恩恵を与える神さまであることもあり、善悪二面性を持っています。能の演目にも「山姥」があり、山姥の山巡りの曲舞を得意とする遊女が登場します。この遊女は「百万山姥」と呼ばれ、善光寺参りの途中で真の山姥に出会い、その山姥が山巡りの曲舞を舞って姿を消すというストーリーが描かれています。また、歌舞伎にも「山姥」が取り入れられ、山姥物という一群の作品が生まれています。これらの作品では、山姥が坂田金時を育てる母とされています。
(39)赤鬼(あかおに)
赤鬼は、日本の伝承や節分の行事に登場する鬼の一種で、その体の色が赤いことからその名がつけられました。また、地獄で罪人を責め苦しめるという赤い鬼ともされています。赤鬼の「赤」は、単に体の色を表すものではなく、仏教における「五蓋(ごがい)」という思想に基づいています。
「五蓋」は瞑想修行を妨げる5つの煩悩のことで、5種類の鬼の色は、この5つの煩悩をそれぞれ当てはめたものになります。「赤鬼」の「赤」が表すのは、「貪欲」という煩悩です。これは欲望や渇望など強い欲望を表し、すべての悪の象徴とされています。節分においては、赤鬼に豆をぶつけることで、自分の中の悪い心が取り除かれると言われています。
(40)青鬼(あおおに)
青鬼は、日本の伝承や節分の行事に登場する鬼の一種で、その体の色が青いことからその名がつけられました。また、地獄で罪人を責め苦しめるという青い鬼ともされています。
青鬼の「青」は、単に体の色を表すものではなく、仏教における「五蓋(ごがい)」という思想に基づいています。
「五蓋」は瞑想修行を妨げる5つの煩悩のことで、5種類の鬼の色は、この5つの煩悩をそれぞれ当てはめたものになります。
「青鬼」の「青」が表すのは、「怒り」や「貧相」などの煩悩です。
(41)緑鬼(りょくき)
緑鬼は、日本の伝承や節分の行事に登場する鬼の一種で、その体の色が緑色であることからその名がつけられました。緑鬼の「緑」は、単に体の色を表すものではなく、仏教における「五蓋(ごがい)」という思想に基づいています。「五蓋」は瞑想修行を妨げる5つの煩悩のことで、5種類の鬼の色は、この5つの煩悩をそれぞれ当てはめたものになります。
「緑鬼」の「緑」が表すのは、「こん沈」「睡眠」という煩悩です。これは怠惰や眠気といった、不健康さを表しています。節分においては、緑鬼に豆をぶつけることで、自分自身のだらしなさや眠気などのゆるみを追い払って健康に過ごせるようにとの願いが込められています。
(42)黒鬼(くろおに)
黒鬼は、日本の伝承や節分の行事に登場する鬼の一種で、その体の色が黒いことからその名がつけられました。黒鬼の「黒」は、単に体の色を表すものではなく、仏教における「五蓋(ごがい)」という思想に基づいています。「五蓋」は瞑想修行を妨げる5つの煩悩のことで、5種類の鬼の色は、この5つの煩悩をそれぞれ当てはめたものになります。
「黒鬼」の「黒」が表すのは、「疑(ぎ)」という煩悩です。これは疑いの心や愚痴などの感情を表しています。節分においては、黒鬼に豆をぶつけることで、心中の不平不満や卑しさを追い払い、心穏やかな生活が送れるようになるという意味合いがあります。
(43)丑御前(うしごぜん)
古浄瑠璃『丑御前の御本地』に、登場する「丑御前」は、菅原道真の御霊とされる北野天神が源頼光の母の胎内に宿り、何と3年3ヶ月もかけて母の胎内で育ち、丑の日、丑の刻に生まれたといわれています。生まれた時から歯が生え、髪の毛が四方に広がっていたということに加え、出産時の姿が鬼神の様相だったことで、「鬼子」と呼ばれたとも言われています。
これに頼光の父・満仲は、父親が誰なのか、不審に思いあぐね、臣下である藤原仲光に、生まれたばかりの赤子を殺すよう命じたのです。しかし、仲光は、主君の子を殺すことができず、自らの子の首をはね、丑御前の身代わりとして満仲に差し出して、丑御前を密かに大和国の金峯山に隠し、荒須崎という女官に育てさせます。
それから15年後、事の顛末が明らかになり激怒した満仲は、総勢7万もの軍勢を頼光に授け、丑御前討伐の命を下していまします。武蔵国の三田に陣を張る頼光軍に対して、丑御前は関八州の兵を集めて鈴が森に陣を張って応戦。そして激戦となった末、何と最後は10丈(約30m)もの巨大な牛と化し、敵を大いに打ち破ったというのです。
丑御前は父・源義仲に忌避されて捨てられた挙句、朝敵とまでみなされて責め立てられたことで、ついに鬼に変貌してしまったのです。そして敗れた後も今度は怨霊と化して、世に現れては祟りを為したといいます。