天狗の変遷
文献に現れる天狗(今昔物語集)
『今昔物語集』は平安末期に成立した仏教説話集で、天狗が多くの説話で登場します。
『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載されています。
そしてこれらの説話は、天狗が神秘的な力を持つ超自然的な存在として描かれ、その存在が人々の生活や信仰に深く関わっていたことを示しています。天狗は人間界と仏法との間で揺れ動く存在として描かれ、その存在は人々の恐怖と尊敬の対象となりました。天狗が人間の欲望や煩悩によって生まれ、人間界を悩ませる存在として描かれているのです。人間の欲望がどのようにして天狗を生み出し、その結果、人間界に混乱をもたらすかを描いています。
また、この時代の天狗は、仏法に敵対する存在として描かれ、法師や仏に化ける話、女に憑依して高僧を誘惑する話などがあります。
天狗の存在は、人間の欲望や煩悩、そして仏法との闘争を象徴する存在となりました。これらの説話を通じて、天狗のイメージが形成され、現代に伝えられています。
なお、巻二十は天狗の話のコレクションですが、「天狗」とあるのはタイトルだけで、文中では「鬼」と表現されており、どちらも異界の存在として、あまり区別せずに用いられていたのだと思われます。
『今昔物語集』巻二十第一話 「天竺天狗聞海水音渡此朝語 第一」
今は昔、天竺(インド)に天狗がおりました。
天竺より震旦(中国)へと渡る道に、海の水が「諸行無常。是法滅法。生滅々已。寂滅為楽。」と鳴るところがありました。
天狗はこれを聞いて大いに驚き、「海の水が、なぜありがたい深遠な法文を唱えるのだろう」と怪しく思いました。
「水をたどり、この音の元をたずねて、邪魔してやろう」と考えました。音を追い、震旦に至りましたが、まだ同じように鳴っています。
さらに、震旦も過ぎ、日本近くの海でも、まだ同じように鳴っています。
九州は博多の港を過ぎ、門司の関に至ると、音がすこし大きくなりました。
天狗はいよいよ怪しく思ってたずねていくと、河尻に至りました。
そこから淀川に入ると、音はさらに大きくなりました。
淀川から宇治川に入ると、さらに大きく聞こえます。
音を追いかけて川をさかのぼっていくと、近江の湖(琵琶湖)に至りました。
音はいっそう大きくなりました。
さらに音をたどっていくと、比叡山の横川から出る川から聞こえます。
ここで法文をやかましく唱えていたようです。
四天王とさまざまな護法神が、この水を守護していました。
天狗は大いに驚き、近くに寄らずに隠れて聞いてましたが、恐ろしくてたまりませんでした。
あまり位が高くない天童がいたので、天狗はおずおずと近づいてたずねました。
「いったいこの水は、どうしてありがたく深遠な法文を唱えているのですか」
天童が答えました。
「この川は、比叡山に学ぶ多くの僧の厠から流れ出ています。そのため、水もありがたい法文を唱えるのです。われわれ天童もまた、これを守護しています」
天狗はこれを聞いて、「音を邪魔しよう」という考えを失いました。
「厠から流れ出る水でさえ、これほど深遠な法文を唱えるのだ。比叡山の僧の貴さは言うまでもない。私はこの山の僧となろう」
そう誓いを発して、姿を消しました。
その後、宇多法皇の御子、兵部卿有明(ひょうぶきょうありあけ)の親王という人の子となり、その妻の腹に宿って出生しました。
誓いのように法師となり、比叡山の僧となりました。
名を明救といいます。延昌僧正の弟子として出世し、僧正になったということです。浄土寺の僧正、または大豆の僧正とも言われたといいます。
『今昔物語集』巻二十第二話 「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」
今は昔、震旦(中国)に智羅永寿(ちらようじゅ)というとても法力の強い天狗がおり、日本に渡ってきました。
そこで日本の天狗に語ります。
「わが国には、身分の高い得行の僧が多くあるが、われわれの思うとおりにならない者はない。聞けば、この国には修行を積んで験を得た僧どもが多いと聞く。彼らに会って、一度力くらべをしようと思うが、どうだ」
日本の天狗が申します。
「たいへん喜ばしいことです。この国の徳行の僧たちも、私たちの手にかからぬ者はありません。辱めようと思えば、いつでもそれが可能です。最近、その対象としようと思っていた者があります。お教えしましょう。私についてきてください」
震旦の天狗は日本の天狗の後について飛び立ちました。
震旦の天狗と日本の天狗は比叡山の大嶽の石卒都婆(いしそとば)の許まで飛び、並んで道ばたに腰を下ろしました。
日本の天狗が震旦の天狗に言いました。
「私は顔を知られていますから、谷の方のやぶに身を隠していましょう。あなたは老法師に化けて、ここを通る人を必ず辱めてください」 そう教えると、自分はやぶの中に隠れて見ていました。
震旦の天狗は、もっともらしい老法師になって、石卒都婆のわきにかがんでいます。目つきがとても恐ろしげで、
「これは必ずやってくれるだろう」と日本の天狗は心強く思い、喜びました。
しばらくすると、山の上の方から、余慶律師(よけいりっし)と言う人が輿に乗って下ってきます。 この人は、貴い僧侶として有名な人でした。この人が辱めを受けると思うと、嬉しくて仕方がありません。やがて一行は卒都婆のわきを通り過ぎて行きます。
「やるなら今だ」と思って、老法師(震旦の天狗)を探したのですが、見当たりません。律師は何事もなく、多くの弟子とともに通り過ぎていきました。
「なぜいなくなったのだ」と思って、震旦の天狗を探してみると、南の谷に、尻をさかさまにして隠れています。日本の天狗は近寄って問いました。「どうして隠れているんですか」
震旦の天狗は問います。「今の僧は誰だ!」「近年やんごとなき験者として有名な、余慶律師という人です。比叡山の千寿院から、内裏の御修法のために下っていきました。貴い僧ですから、『恥をかくさまを見られるぞ』と思って楽しみにしていたのですが、果たせませんでした。とてもくやしく思っています」
「僧には貴気が宿っていた。『この人だ』と思って、出ていこうと思っていると、僧の形は見えなくなって、輿が炎をあげて燃えているのが見えた。『近寄っては火に焼かれてしまう。これは見過ごしたほうがいい』と思って、隠れていたのだ」
日本の天狗は嘲笑しました。
「はるか震旦から渡ってきて、この程度の者を引き出さずに通すとは情けない。次に来る人は、必ず引きとめて恥をかかせてくださいよ」
震旦の天狗は答えました。「まさに言うとおりだ。次こそ見ていろよ」
はじめのように石卒都婆のわきに立ちました。
日本の天狗ははじめと同じように谷に下り、やぶに隠れて見ていました。
飯室の深禅権僧正が下ってきました。輿の一町ほど前に、髪が乱れ伸びた童が、杖をもって道を払っています。
「さて老法師(震旦の天狗)はどうするのかな」と見ていると、この童は老法師を杖で追い立て、打ち払いました。老法師は頭を抱えて逃げていきます。打ち払われて、輿のそばに寄ることもできません。
日本の天狗は震旦の天狗の隠ている所に行き、たずねました。
「なぜ逃げるのですか」
震旦の天狗が答えました。「まったく無理なことを言うよ。輿の前にいる童を見れば、とうてい寄ることなんかできやしない。『捕らえられて頭を打ち破られる前に』と思ったから、大急ぎで逃げたんだ。私は震旦から片時の間に飛んで渡れるほどに飛ぶのが速いが、この童は自分よりさらに速そうだった。これはかなわないと考えて、隠れることにしたんだ」
日本の天狗は言いました。「次に来る人は必ず辱めてくださいよ。日本に渡ってきて、なんの益もなく帰ったら、震旦の面目にもかかわるでしょう」
そう言って震旦の天狗を恥をかかせ、自分はもとのところに隠れていました。
しばらくすると、がやがやと人の音がして、下より大勢の人が登ってきました。最初に現れたのは赤袈裟を着た僧で、道を掃き清めています。つづいて若い僧が、三衣筥(さんえばこ、衣の入った箱)を持ってきました。次に輿に乗って登ってくる人は、比叡山の座主(ざす、首席の僧。前のふたりも座主だった人)、横川の慈恵大僧正です。
「この人にかかっていくのかな」そう思って見ていると、髪を結った小童部(こわらべ)が二、三十人ほど、座主の左右に立って歩いてきます。震旦の天狗が化けた例の老法師は、はじめと同じように隠れているようです。
小童部のひとりが言いました。
「こういう場所には、あやしい者がいて、こっちをうかがっていることがあるんだ。きちんと散らばって、見て歩こう」
勇みたった童部は、楚(ずはえ、ムチ)を持って、道のわきを探っています。見つけられては大変だと、天狗はさらに谷を下り、やぶの奥深くに隠れました。
南の谷の方で、ある童部が叫びました。「ここにあやしい奴がいる。捕えよう」
他の童部が言います。「老法師だ。こいつはただ者じゃない」
「捕らえろ。絶対に逃がすな」
童部たちが走りかかっていきます。
「大変だ。震旦の天狗が捕らえられたようだ」
そうは思ったけれども、出て行くわけにはいきません。日本の天狗はさらに深くやぶの中に入り、ぶるぶる震えながらひれ伏していました。
やぶの中から、おそるおそる見ると、童部が十人ばかり集まって。老法師を石卒都婆の北の方にひっぱりだし、何度も踏みつけています。老法師は声をあげて叫びますが、助ける者はありません。
童部が問います。
「どこの老法師だ。名乗れ」
「震旦より渡ってきた天狗です。『通っていく人を見てやろう』と思い、ここにおりました。はじめにやってきた余慶律師という人は、火界の呪を唱えて通ったので、輿の上が大いに燃えさかる炎のように見えました。自分が焼けてしまいますから、その場から逃げ去ったのです。
飯室の僧正は、不動明王の真言を唱えていました。
制多迦童子(せいたかどうじ、不動明王の脇侍)が鉄の杖を持って先を歩き、守っていました。童子には出会いたくありませんから、深く隠れていました。
このたび通った座主の方は、前のふたりのように、真言を唱えて身を守るということはしませんでした。ただ、摩訶止観(中国天台宗でまとめられた仏教の論書)を心に念じて昇ってくるだけで、怖ろしくはなかったのです。だから深くも隠れずに、ここにいたのですが、このように捕らえられ、痛い目にあっています」
童部はこれを聞くと言いました。
「重い罪がある者ではない。許して逃がしてやれ」
童部は皆、老法師の腰を踏みつけました。天狗はさんざんな目にあった後、解放されました。
座主の一行が通り過ぎると、日本の天狗が谷の底より這い出して、老法師が腰を踏み折られて倒れているところまで歩み寄って言いました。
「どうです、今度はうまくできましたか」
震旦の天狗が泣きながら答えました。
「かまわないでください。聞かないでください。あなたを頼りにして、遠くから渡って来たのです。それなのに、安全な方法も教えずに、生仏のような人たちに会わせるなんて。おかげで、このように老腰を踏み折られてしまった」
日本の天狗が申しました。
「おっしゃることはもっともです。しかし、『大国の天狗なら、小国の貴人など、辱めることができるだろう』と考えて、彼らが通るところへ案内したのです。このように腰を折ってしまったことは、まったく気の毒に思っています」
日本の天狗は、北山の鵜の原というところで湯治をさせ、震旦に帰してやることにしました。
京の北山の木伐(きこり)が、鵜の原を通りました。湯屋に煙が立っているのを見て、
「自分も一風呂浴びていこう」と考えました。
木を湯屋の外に置き、入って見ると、年老いた法師が二人、湯浴みをしています。一人は臥し、腰に湯を流していました。
「おまえは誰だ」と問われたので、「山から木を切って、帰るところです」と答えました。
この湯屋はたいへんに臭かったので、木伐は頭が痛くなり、恐ろしく思って、湯も浴まずして帰りました。
その後、日本の天狗が人に乗り移って語ったことを、この木伐が伝え聞き、鵜の原の湯屋で二人の老法師 の湯浴していたことを思いあわせて、語ったと伝えられています。
『今昔物語集』巻二十第三話 「天狗現仏坐木末語 第三」
今は昔、延喜の天皇(醍醐天皇)のころ(897~930)、五条の道祖神がいらっしゃるところ(現在の松原道祖神社)に、実のならない大きな柿の木がありました。
その柿の木の上に、仏が現われました。
まばゆい光を放ち、たくさんの花を降らせ、とても貴い様子です。身分の高い人から低い人まで、京のあらゆる人が詣でました。車も動けず、人も歩むことができない、たいへんなにぎわいでした。
そのように拝み騒いでいるうちに、六、七日が過ぎました。
その頃、深草の天皇(仁明天皇)の御子で光の大臣(源光)という人がありました。
多くの才能に恵まれ、とても賢い人でした。彼は仏が現れたことを、不審に思っていました。
「本当の仏が、木に現れるのはおかしい。これは、天狗などのせいにちがいない。外道の幻術は七日が限度だという。行ってみよう」
大臣はきちんとした装束をつけ、檳榔毛の車(びろうげのくるま、牛車)に乗り、馬に乗った先払いの者などをともなって、赴きました。
集まっていた人をどかし、車から牛をはずし、榻(しじ)を立てて、すだれを巻き上げて見ると、たしかに仏が木の上にいらっしゃいます。
金色の光を放ち、空から様々の花を降らせています。まるで雨のようです。たいへん尊い様子でした。
しかし、大臣はこれを怪しく思いました。
仏に向かい、瞬きもせず、一時(現在の2時間程度)ばかり見つめていました。
仏はしばらく光を放ち花を降らしていたのですが、じっと見つめられていたために、やがて屎鵄(くそとび)の翼が折れたものの姿を現し、木の上から地面に落ちてあわてふためいていました。
多くの人はこれを見て、「おかしなことだ」と思っていました。
子どもたちが寄ってきて、この屎鵄を打ち殺してしまいました。
「真の仏が、とつぜん木の上に現われたりするものか。理由がない。そんなことも悟らずに、拝んでいるのは愚かなことだ」
大臣はそう言って帰りました。
その場にいた人はみな、大臣を褒め称えました。
世の人もこの話を聞き、「大臣は賢い人だ」と賛辞を惜しまなかったといいます。
『今昔物語集』巻二十第七話「染殿后為天宮被焼乱語 第七」
この話の主人公は、染殿后と呼ばれる人物で、文徳天皇の母であり、藤原良房太政大臣(関白)の娘です。彼女は非常に美しい人物でしたが、常にもののけの病に悩まされていました。
験ありと世に評判の僧達が召され祈祷しても効果が現れなかった。
大和の金剛山に貴い聖人がいるという噂があり、都に招き后の祈祷をさせることとなった。
聖人が加持祈祷を行うと、后の物の怪は后から出て侍女に移った。
聖人はこれを見逃さず今度は侍女を打ち据え、懐中から出でた老孤を捕えた。
これにより后の病は治癒した。
ところが今まで女人を見たことのなかった聖人は后の美しさに心を奪われてしまい、ついに御帳の中に忍び込み后を我が物にしてしまった。
聖人は捕えられ獄に繋がれたが、「我れ、忽に死て、鬼と成て、此の后の世に在まさむ時に、本意の如く、后に睦びむ」と言い放ったのです。
これを聞いた后の父である太政大臣は驚き、天皇に奏して金剛山に戻したのでした。
山に帰った聖人はさらに思いを募らせ、三宝に祈願しても果たせず、ものを食べずにいました。
そして、遂に当初の願い通り絶食して死んでしまったといいます。
さて、餓死した聖人は鬼になって都に現れたのでした。
その形相は、「身裸にして、頭は禿也。長け八尺許にして、肌の黒き事漆を塗れるが如し。眼は鋺を入たるが如くして、口広く開て、釼の如くなる歯生たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣を掻て、槌を腰に差したり。」とあります。鬼は后を狂わせ虜にし遂には睦み合うに至った。
鬼が現れてから3か月が過ぎた日、天皇は后の様子を確かめるべく行幸された。
すると鬼は再び部屋の角から現れ、御帳の中に入って行った。
后もまた御帳の中に入り少し経つと鬼は南面に踊り出てきた。列席していた大臣、公卿は鬼の姿を見て恐れ慄いた。続いて后が出、衆人の目前で鬼と媾った。
説話は「然れば、止事無なからむ女人は、此の事を聞て、専に然るべし有らむ法師をば、近付くべからず。此の事、極て便無く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見しめて、法師に近付かむ事を強に誡めむが為に、此くなむ語り伝へたるとや。」という教訓で結ばれている。
「身分の高い女人は、法師を近づけてはいけない。これを語ることは大いに憚られるが、後世の人に伝えていましめとするために、語り伝えられている。」という意である。
この説話に現れるのは鬼であったが標題には天狗と記されているように、仏法を捨てた修験者が天狗になったというものである。
天狗の文献
日本書紀 | 天狗の概念が文献に登場 |
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宇津保物語 | はるかな山に住む天狗 |
今昔物語集 | 仏教説話に登場 |
太平記 | 政治の表舞台に登場 |
是害坊絵巻 | 比叡山の僧と法力比べ |
源氏物語 | 人間の世界に干渉 |
保元物語 | 日本三大怨霊の登場 |
遠野物語 | 山の怪の代表格 |