新選組に関する知識を拡充しましょう。
幕末の動乱期、新選組の剣として恐れられた剣術天然理心流は、江戸時代後期寛政年間(1789年~1800年)に近藤内蔵之助が創始した武術で、鹿島神道流を淵源としています。いかなる相手に対しても動じない極位必勝の実践を教え、自然にさからわず天に象どり地に法とり、以て剣理を究めることから、天然理心流と命名しました。
剣術が隆盛し、現代の剣道に近い防具・竹刀を用いての稽古が一般化していた幕末。江戸では「三大道場」と呼ばれるそれぞれの流派がその名を全国に轟かせていました。「技の千葉」と呼ばれた千葉周作の北辰一刀流・玄武館。「力の斎藤」と呼ばれた斎藤弥九郎の神道無念流・練兵館。そして、「位(くらい)の桃井」と呼ばれた桃井春蔵の鏡新明智流・士学館。 新選組には最大で200人を超える隊士が所属していることもあり、数多くの流派が存在しました。
新選組の「隊旗」に関しては複数の証言から、様々な模様が存在したと考えられています。ある証言では、赤地に白く「誠」と「ダンダラ(山形)模様」が染め抜かれたものであり、これが一般的である。一方、永倉新八はダンダラ模様がなかったと証言している。他にも、文字が「誠忠」になっているもの、「誠」の文字が金糸で刺繍されたものなどが伝えられている。
慶応4年(1868年)の1月3日から6日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍が戦いました。これを「鳥羽伏見の戦い」といい、翌年6月に終結する「戊辰戦争」の初戦になっています。
箱館戦争(慶応4年/明治元年~2年(1868~69年)は、戊辰戦争の局面のひとつで、現在の北海道、函館で行われた新政府側と旧幕府側の戦闘です。
日野宿は、宿場としては特段大きなところではありませんが、多摩川の渡し場を管理するなど甲州道中の重要拠点でした。
1590(天正18)年、徳川家康は江戸に入府する際、かつての武田氏の家臣だった者たち250人を八王子に移し、農地を与えて甲州口の警備に当たらせました。それに付近の農民を加え、翌年には500人。10年後となる1600(慶長5)年には、1000人にまで増員されました。
土方歳三生家が代々、宝永年間から伝える骨接ぎ、打ち身の妙薬です。 原料は多摩川、浅川などに野生する牛革草(みそそば)を土用の丑の日採取、陰干しにして、のち、黒焼きにして粉にする。
近藤勇の墓は、三鷹市大沢6丁目の竜源寺。本堂裏手のうっそうと繁った竹やぶを抜けたところ、近藤家の墓所の中にある。この墓こそ首のない勇の胴体を葬った所で、段を上った所に近藤勇の墓、その左に近藤勇五郎之墓があり、墓地の左側に近藤勇辞世の碑がある。
日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。
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