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新選組の歴史



新選組の歴史を紐解いてみましょう

 新選組の歴史を紐解いてみましょう。

 新選組を結成し、その中心となるのは、天然理心流宗家の近藤勇と、彼の道場に出入りしていた仲間たち、そして近藤が出稽古に赴いていた日野の土方歳三や井上源三郎たちでした。

 幕末の京都は、外国の脅威、開国による国内市場の混乱、尊皇攘夷思想の高まりといった社会情勢の中で、尊王攘夷派や討伐運動の志士が集まり不安定な情勢でした。
 幕府は、京都所司代と町奉行だけでは京都の治安維持ができないと、文久3(1863)年に上洛する将軍徳川家茂の警護の名目で浪士を募集しました。
 日野のいわば田舎で剣術の稽古で共に汗を流していた彼らは、剣の道で国難に立ち向かう志を胸に、この幕府が組織した「浪士組」に加わりました。

 浪士組を企画したのは、出羽庄内出身の浪士、清河八郎でした。
 ところが、上洛するや彼は200人余り集まった浪士組に、「浪士組は僧郡護衛の組織ではなく、実は尊攘のための集団だ」と演説することになります。
 これを受けて、上洛した浪士組の大半は、攘夷実行のため直ちに江戸に戻りました。

 しかし、彼らと袂を分かった近藤勇や芹沢鴨など主に水戸派は、京都守護職の会津藩主松平容保に京都の市中警護を願い出て、京都市中警護がはじまりました。当初、京都郊外の壬生村に駐屯していたため、名前を「壬生村浪士隊」と改名するのです。

 文久3年(1863)「八月十八日の政変(文久の政変)」時には御花畑門警護を担当。その後は京都の治安維持の功績が認められ、武家伝奏(ぶけてんそう)より「新選組」の名前を下賜されます(松平容保からとの説もあります)。しかし、当初、局長は、近藤勇と芹沢鴨の二人体制でした。
 近藤勇はこのあと壬生浪士時代からの幹部である新見錦(にいみにしき)を切腹させます。

 芹沢鴨は、その行動でたびたび問題を起こし、京都守護職から京都の庶民にまで怨みを買うほどでした。
 ついに芹沢の起こした大和屋の焼き打ち事件は、会津藩も激怒。近藤らは芹沢一派の殺害を実行する事になります。本当の理由は分かっていませんが、一般的には農民出の近藤らを水戸の家臣だった芹沢鴨が馬鹿にしたのが原因ともいわれています。

 そして、新選組の名を世に知らしめたあの事件が起こるのです。
 探索に余念のなかった新選組は、長州藩で、御所周辺に火を放ち、公武合体派諸侯を暗殺し、天皇を拉致するという計画があるという情報を得たのです。
 そしてこれを実行するために池田屋に志士が集まっていることを突き止めます。
 近藤勇は1864年6月5日の22時過ぎに、沖田総司ら数名を連れて踏み込みました。乱闘の結果、10名を殺し、23名が捕縛されました。
 これが有名な池田屋事件です。

 この事件で、誠の一文字を旗と浅葱色(あさぎいろ)の羽織を着て街を闊歩する、新選組がどれだけ役に立つかを世間に活躍が認められ、新選組の名を轟かせました。
 しかし、意外にも新選組活躍の歴史はたった5年でした。規律が厳しかったので、殺されるものや切腹させられるものも少なくなかったようです。

 慶応3年(1867)10月の大政奉還、12月の王政復古の大号令を経て、旧幕府と新政府の間で、1年半に及ぶ戊辰戦争が始まりました。伝統的な剣術集団である新選組は、鳥羽・伏見の戦いでも、最新のライフル銃を使う新政府軍に勝てるわけもなく、大打撃を被りました。

 しかし、新選組は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後も、旧幕府方の有志集団として戦いを続けました。
 江戸に戻った新選組は、江戸鍛冶橋門外(現在の東京都千代田区)に屯所を構えます。
 この地に移った新選組は、幕府から甲陽鎮撫(こうようちんぶ=現在の山梨県の治安維持)を命じられ、大砲2門、鉄砲500丁、軍資金5千両を幕府や会津藩から与えられました。

 近藤も「大久保剛」と名前を変え、歳三は「内藤隼人」と変名し、甲陽鎮撫隊と改名した新選組を率いて出陣。 70名まで減っていた隊士も、新規募集の兵を加えて200名ほどになりました。

 しかし、練度の低い隊士が多くなったことで統率が取れず進軍が遅れ、甲陽鎮撫隊が甲斐に到着した時には、東山道先鋒総督軍によって甲府は制圧されていました。
 甲陽鎮撫隊は甲府盆地の東に位置する勝沼で板垣退助率いる土佐迅衝隊(じんしょうたい)と戦闘におよびますが、壊滅的な打撃を受けて敗走します。

 敗走後、江戸に戻った近藤勇は八王子で江戸退去を宣言。
 会津での再起を考えますが、原田左之助、永倉新八らと意見が対立し、「靖兵隊」を結成し、新選組立ち上げから行動を共にした2人と別れることになります。
 甲府での戦いで減った兵力を補充するため、江戸で再び隊士を募集し総勢227名まで回復した甲陽鎮撫隊(新選組)は、会津を目指して北上を開始しました。

 甲陽鎮撫隊が流山に屯所を構えた頃、東征を進める新政府軍はすでに江戸板橋宿に到着。
 宇都宮城占拠を狙う会津・桑名の軍勢に対抗するため糟壁に入ります。
 東山道先鋒総督軍大軍監・香川敬三は東征軍の背後を甲陽鎮撫隊が襲撃する計画があることを知ると、鎮撫隊の流山の屯所を急襲して完全に包囲します。

 もはやこれまでと悟った近藤は自刃することを決意しますが、土方に押しとどめられ、大久保大和の変名のまま板橋の新政府軍総統府に出頭することになりました。
 出頭した近藤は「大久保大和」であると主張し続けます。
 しかし、元新選組隊士で御陵衛士(ごりょうえじ)に所属していた加納鷲雄(かのうわしお)や清原清の証言で身元が確認され、新選組局長の近藤勇として裁かれることになりました。
 近藤勇の処分をどうするかで、彼を擁護する薩摩藩と厳しい処分を望む土佐藩とが対立。
 結局、土佐藩の谷干城(たにたてき)が薩摩藩を押し切り、斬首が決定します。
 土佐藩が近藤勇に厳罰を望んだのは、坂本龍馬暗殺が新選組の仕業であると確信していたからだといわれています。
 慶応4年(1868)4月25日に板橋刑場において処刑されます。処刑された後には、京都三条河原で梟首(きょうしゅ)され、賊軍の扱いを受けてしまいます。満33歳という若さでした。

 一方4月11日に江戸開城が成立すると土方らは江戸を脱出し、下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させるのでした。
 この時、土方は足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなります。会津では約3ヶ月間の療養生活を送っています。
戦線復帰後、母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化し、土方は援軍を求めて庄内藩、次いで仙台へ向かいます。
 ここでも、会津城下に残った山口二郎(斎藤一)達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂します。
 土方は仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らと共に10月12日仙台折浜を出航し、蝦夷地に渡ったのでした。

 明治2年(1869)5月、二股口の戦い等で活躍します。
 しかし、すでに新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏します。

 この五稜郭が陥落した時に、幕末の動乱は終わり、新選組も最後の幕を下ろしたのでした。


御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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