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日野の新選組豆知識



天然理心流とは

 幕末の動乱期、新選組の剣として恐れられた剣術天然理心流は、江戸時代後期寛政年間(1789年~1800年)に近藤内蔵之助が創始した武術で、鹿島神道流を淵源としています。いかなる相手に対しても動じない極位必勝の実践を教え、自然にさからわず天に象どり地に法とり、以て剣理を究めることから、天然理心流と命名しました。

 一般には剣術流派としての知名度が高いですが、その内容は、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術等を含む総合武術として構成されていました。四代目の宗家になる近藤勇は門人達に「技よりも気組みだ」と教えていたらしく、真剣勝負では理屈を超えた気合が生死を分けると考えていたとされる。
 すなわち、天然理心流とは、実戦での気力や胆力を重要視し、捨て身で向かう当時の幕末では珍しい完全な実戦向けの剣術でした。虚飾のない豪快な技が多く伝わっています。
 だからこそ、真剣の修羅場において威力を発揮するのでした。近藤勇は、この気組の精神を生かし、新選組を作り上げました。同じく実戦性が限りなく多く残っていたのは薩摩藩士の示現流などがあり、この二つの流派は非常に恐れられていたといいます。

 近藤内蔵之助は神道流の開祖・飯篠家直の末裔を自称しているが、近藤内蔵之助について詳しい記録はほとんどなく、遠江の出身という以外は不明である。
 天保14年(1843)の「新撰武術流祖録」という様々な武術流派について書かれた本には、「天然理心流 近藤内蔵之助長裕遠江ノ人也、好刀術得其妙、号天然理心流其門近藤三助方昌得其宗方昌ハ武州八王子住其門許多シ」と記されている。 内蔵之助は、剣術を非常に好み、広く諸国を歩いて修行をつみ常陸の鹿島神宮に詣で術の極意を悟ったという。
 内蔵之助の剣術の道場は、江戸薬研堀(現在の中央区日本橋2丁目あたり)にあったと思われ、ここから頻繁に足をのばして、相州高座郡や武州八王子、五日市方面に通って天然理心流を教えていた。

 近藤家二代目の近藤三助は、多摩郡戸吹村(東京都八王子市戸吹町)の村名主、坂本家に生まれ、内蔵之助のもとで天然理心流を学んだ。
 三助は長男であったから父のあとを継ぎ名主役を勤めなければならなかったが、剣術に熱中し、家にほとんどいなかったという。
 三助は師匠危篤の報を聞き、戸吹から急いで駆けつけた折、内蔵之助は、亡くなる直前に三助を枕元に呼び寄せ、人払いを命じて気術の奥儀を伝授されたと言われている。
 近藤三助の出身地の関係から、門人は江戸市中のみならず武蔵、甲斐、相模にまで広がり、幕臣から農民まで幅広い身分の者が入門した。
 文政2年(1819)4月26日46歳で没するまで剣術一筋に生き、門人の育成と天然理心流の技の改良につとめ、初代内蔵之助の代よりさらに奥の深いものとした。

 しかし、三助は跡継ぎを決めないまま早世したため、11年の間宗家が不在であったが、後に高弟の一人嶋崎周助が近藤姓を名乗り、事実上の三代目宗家となり、天保10年(1839年)江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に試衛館(試衛場)を構えた。当初は野暮ったい剣風から「百姓剣法」などと揶揄され、更に竹刀を使った道場試合とは相性が悪く勝てなかったため、道場主の近藤は試合の際に近くの神道無念流の練兵館道場に助っ人を頼んでいたという。

 近藤周助は、武州多摩郡小山村三ツ目(現・町田市小山町)の名主島崎休右衛門の三男として寛政4年(1792)に生まれ、その生涯に名前を四度変えている。幼名を関五郎といい、その後周平、周助と称し、以後隠居して慶応3年(1867)に亡くなるまでを周斎と号した。
 また、島崎家に生まれた周助が近藤姓に改めたのは天保元年(1830年)であるから、三助の死後11年が経過しているが、この間の事情は不明である。周助の門弟は、八王子から日野、府中、上石原にかけて多く、小道場が作られ門人も後半には300人に達したといわれる。
 また、周助は天然理心流及び同流自派の勢力を顕示するため、六社宮(大国魂神社)のほかに、日野の八坂神社にも剣術上達祈願の献額を奉納している。

 近藤周助は、嘉永2年(1849年)宮川勝五郎を養子に迎える。
 宮川勝五郎は、多摩郡上石原村で、宮川久次郎の三男として生まれるが、嘉永元年(1848)11月兄二人とともに近藤周助の門に入門した。
 勝五郎は、15才と一番年少にもかかわらず、稽古には人一倍熱心であった。
 嘉永2年6月、入門後8ヶ月で周助より天然理心流の目録が与えられ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに密かに目をつけていた。

 勝五郎が目録を受けて少したった頃のある夜、白刃を持った盗賊が数人、宮川家に押し入った。その際兄と率先して斬りつけ、賊の気を奪いこれを遁走させた。
 この話を久次郎から聞いた周助は、勝五郎の機智に富んだ勘の鋭さ、度胸の良さに感服して、近藤家の養子に迎え天然理心流四代目を継がせようと決心したといわれる。宮川勝五郎は、周助のもとへ養子に入り近藤勇となった。

 万延元年(1860年)には近藤勇が四代目宗家を襲名し、襲名披露の野試合は、文久元年(1861)8月27日、天然理心流の大扁額のかかっている府中六社宮「大国魂神社」の東の広場にて行われた。
 この野試合は、本陣に島崎勇改め近藤勇昌宜が総大将、紅白二つに軍を分けて行われ、後に「新選組」隊士として活躍する沖田総司、井上源三郎、土方歳三、山南敬助等もこの野試合に参加している。

 14代将軍徳川家茂の上洛警護のため幕府が募った浪士組に、近藤勇以下試衛館の土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助ら8人が参加することを決め、浪士組一行と共に文久3年2月8日(1863年3月26日)京都に向けて出発した。
 
 近藤勇は、天然理心流の後継者として後を沖田総司に譲りたいという内容の手紙を書いているが、勇の死から2ヶ月後に沖田も千駄ヶ谷で病死している。
 その後勇の甥勇五郎が婿養子として近藤家を継ぐが、勇五郎は勇から剣を学ぶことはなかったため天然理心流宗家は事実上途絶えている。
 勇五郎の息子久太郎も日露戦争で戦死し、勇の剣統はここで絶えてしまうことになる。



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日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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