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日野の新選組豆知識



鳥羽・伏見の戦い

 慶応4年(1868年)の1月3日から6日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍が戦いました。
 これを「鳥羽伏見の戦い」といい、翌年6月に終結する「戊辰戦争」の初戦になっています。鳥羽伏見の戦いで新選組隊士は、二十一人戦死しますう。その内井上源三郎を含め六番隊全員十名が戦死します。この鳥羽伏見の戦いを皮切りに、日本全国へ戊辰戦争という内戦の火が広がっていったのです。

 慶応4年1月3日、薩長側の兵と旧幕府側の兵とが鳥羽方面と同じく、伏見でも昼間から通行を巡って対峙していました。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所に本陣を置いており、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖して、旧伏見奉行所を包囲する形で布陣しました。

 戦端が開かれたのは、鳥羽街道でした。旧幕府軍の先鋒が薩摩軍に遭遇し、それでも強引に道を進もうとしたところ、薩摩軍から一斉掃射を浴びたのです。
 この時旧幕府軍は、先頭に京都見廻組、次に歩兵、最後に砲兵の順で雑然と並んでいましたが、これに対し薩摩軍は、洋装で隊列を組み、銃も装填、後方には大砲を据え、街道脇には小銃隊をひそませていました。

 鳥羽伏見の戦いでは、緒戦時、旧伏見奉行所内には会津兵と共に、土方歳三が率いていた新選組が在り、斬り込み攻撃を掛けました。
 薩摩兵がこれに銃・砲撃を加えますが、新選組を始めとする旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しました。
 薩摩藩砲兵の攻撃が旧伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、炎上しました。
 新政府軍は更に周囲の民家にも火をかけて、炎を照明代わりに銃撃をしてきたため、旧幕府軍は持ちこたえられずに退却を開始しました。
 新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対し、旧幕府軍は15,000名もいましたが、鳥羽では総指揮官の不在や逃亡などで混乱をきたし、兵力を生かしきれずに新政府軍に前進を阻止されました。
戦いにおける姿勢の差が勝負を決め、薩摩軍が旧幕府兵を潰走させます。

 一方、鳥羽での砲声を聞き、伏見でも戦闘が始まりました。ここでも薩長が連合した新政府軍は、近代的な戦闘と圧倒的な砲火をもって旧幕府軍を圧倒し、勝利をおさめます。

 新選組は、この一連の鳥羽伏見の戦いで隊員の1/3が戦死するという損失を出しており、如何に苛烈な戦闘だったかが窺えます。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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