日野の新選組豆知識
首のない近藤勇
近藤勇五郎は、勇の生家である宮川音五郎(勇の長兄)の次男として嘉永4年に生まれ、勇の娘瓊子(たまこ)の婿養子となった。
慶応4年4月25日勇が板橋で斬首されたときは、勇五郎16才で、養母つねと瓊子の三人で牛込二十騎町の家を手放し中野村本郷(現中野区本町2丁目)の成願寺という寺に住んでいた。
勇のかつての門人から「板橋の問屋場に捕らわれているらしい」との話を聞いて、何度も板橋まで勇の安否を気遣って訪ねている。
わからないでいる所、「今日は立派な旗本が斬られるそうだ」という噂を耳にし、はからずも養父が斬首されるのを目撃してしまう。
実父音五郎と勇の門人に相談した結果、翌々日の27日、「何とか遺体を持ってこよう」ということになり、勇五郎と音五郎、そして門人等7人で夜板橋に出かけ、刑場の番人に包金を握らせ、首のない遺体を三鷹の竜源寺まで運んで埋葬した。
この時の遺体の確認は首がないので、証拠は京の伏見街道墨染で伊東甲子太郎の残党によって狙撃された鉄砲の傷跡であったと言われている。
近藤の首は一旦板橋宿はずれの平尾一里塚刑場(現板橋駅東口付近)に晒された後、火酒(焼酎)に浸されて京都に送られ三条河原に晒された。
近藤勇の墓は、三鷹市大沢6丁目の竜源寺。本堂裏手のうっそうと繁った竹やぶを抜けたところ、近藤家の墓所の中にある。この墓こそ首のない勇の胴体を葬った所で、段を上った所に近藤勇の墓、その左に近藤勇五郎之墓があり、墓地の左側に近藤勇辞世の碑がある。