日野の新選組豆知識
函館戦争
箱館戦争(慶応4年/明治元年~2年(1868~69年)は、戊辰戦争の局面のひとつで、現在の北海道、函館で行われた新政府側と旧幕府側の戦闘です。この戦闘で旧幕府側が最終的に降伏し、日本の内戦、いわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)は終わることとなりました。
旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる。
慶応4年(1868)10月19日に旧幕府海軍副総裁・榎本武揚が率いる幕府艦隊がめざした北海道の上陸地点は箱館(現函館)をあえて外し、その北方40km、亀田半島を回り込んだ内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木浜であった。
蝦夷地へ上陸した旧幕府脱走軍は,数手に分かれて五稜郭を目指し,10月25日、見事に占拠することになりました。
五稜郭は敵をすべての方角からとらえられる星型の西洋式城郭である。箱館の市街地から東北東へ5kmほどの距離にある。
旧幕時代の元治元年(1864)に完成して箱館奉行所が入っていたが、幕府瓦解の後、新政府の出先機関である箱館府が置かれていたのである。
11月1日、土方歳三の率いる新撰組・彰義隊・額兵隊(仙台藩洋式歩兵隊)などの諸隊が松前城を陥落させる。
しかし、11月15日、江刺沖で最新鋭艦・開陽丸を座礁・沈没させてしまった。12月15日には,榎本は蝦夷地仮政権を樹立、士官以上の入札により、榎本は総裁となり、土方は陸軍奉行並となった。
しかし,翌明治2年4月,乙部へ上陸した新政府軍の反撃が開始され,前年に最大の戦力だった開陽丸を失った脱走軍は,次第に形勢不利となります。そして,5月11日には明治新政府軍が箱館総攻撃を行うことになりました。
その結果,脱走軍の最大の砦であった弁天岬台場がほとんど壊滅状態となり,その救援に向かった新撰組副長の土方歳三が一本木関門を入り,異国橋あたりで銃弾に撃たれて戦死することになりました。
最期の瞬間は、“馬に乗ったまま被弾した”“味方によって狙撃された”という説もあり、いまだ謎に包まれている。土方の死の6日後に旧幕府脱走軍は降伏。箱館戦争は終戦を迎えたのである。
五稜郭は新政府に明け渡されることになりました。
降伏した旧幕府側の首脳部は今回の戦争の責任を問われて新政府側から処刑されるということは無く、投獄されたものの明治5年に釈放されたそうです。