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日野の新選組豆知識



新撰組と新選組

 新選組の「隊旗」に関しては複数の証言から、様々な模様が存在したと考えられています。ある証言では、赤地に白く「誠」と「ダンダラ(山形)模様」が染め抜かれたものであり、これが一般的である。
 一方、永倉新八はダンダラ模様がなかったと証言している。他にも、文字が「誠忠」になっているもの、「誠」の文字が金糸で刺繍されたものなどが伝えられている。しかしながら、正規の隊旗は現存しないようです。

 また、このほかに「新選組袖章」があったようです。
 隊士が袖につけて、隊士である証とした腕章のようなもので、これは今でいう「身分証明証」の役目も兼ねていたようで、また、乱闘になった際や同志討ちを避けるために使われたともいわれています。これには白地に赤字で「誠」とダンダラ模様が描かれているようです。

 また隊名には、「新選組」と「新撰組」が存在しています。どちらも正しいという意味は、隊内でも幕府からの感状でも、どちらの字も使われているからです。ただ京都守護職・会津藩は主に「撰」の字を使っていたようです。

 新選組の隊名はどうやってつけられたかというと、新選組二番隊伍長の島田魁の日記にその記載が認められます。これによれば、文久3年8月18日に「八月十八日の政変」があり、壬生浪士組に出動要請があった。
 この時の御所警護の功績が認められて、武家伝奏を通じて朝廷から「新選組」の隊名を下されたという。実は、もともと江戸中期の会津藩の軍政に「新撰組」という名称があったのです。
 その新撰組は諸芸に秀でた藩士の子弟30名が本陣の藩主の護衛役として加えられていたという。
これらのことから、新選組の名は突然考え出されたものでなく、昔の会津藩にあった「新撰組」という名称が、会津藩から朝廷に上申され、壬生浪士組に与えられたのではと考えている歴史学者もいます。

 なお、近藤勇が、元治元年(1864)5月に郷里へ送った手紙には「新選組」の印が押されています。
いずれにしても、「選」と「撰」、どちらも正しいということでしょうか。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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