鬼を祭る風習
奥三河の花祭り(愛知県新城市)
愛知県の奥三河地域で毎年11月から3月にかけて各地区で開催される「花祭」。
国の重要無形民俗文化財にも指定されている「花祭」は、悪霊を払い除け、神人和合、五穀豊穣、無病息災を祈る目的で鎌倉時代から代々親から子、子から孫へと大切に伝承されてきた神事です。
山見鬼、榊鬼、茂吉鬼、伴鬼などの鬼が、太鼓や法螺貝を鳴らしながら、五穀豊穣や厄除けを祈願します。
「花祭り」は、11月から3月にかけて、太陽の力が弱まり、万物の生命力が衰え、人間の魂や身体が最も衰える霜月(旧暦11月)の時季に、神仏を舞庭と呼ばれる祭場に招き降ろし、村人が神仏と交遊して新しい自己に生まれかわる再生の祭りです。地元の人々は「花祭」を単に「花(はな)」と呼びます。
愛知県の三河地方は西三河平野部、東三河平野部、山間部の3つの地域に別れており、祭り文化も概ね、この3地域で特色は分かれます。
なかでも山間部の最奥にあたる北設楽郡は、「奥三河」とも呼ばれる地域で、その大部分が天竜川水系に属し、祭り文化も天竜川流域で盛んな霜月神楽が盛んで「花祭り」はその代表とも言える祭りです。
およそ40種類にもおよぶ舞が夜を徹して行われ、町外からもたくさんのファンが訪れ舞手と一体となって「て~ほへ、てほへ」の掛け声とともに全員で盛り上がります。
舞庭(まいど)と呼ばれる会場は、大きな土間の四方に立てられた榊がしめ縄で結ばれ、結界が作られており、舞庭の中央には湯釜があります。
天井にはいくつもの湯蓋と呼ばれる天井飾りがつけられ、仏教のなかで如来の教えを意味する五色の紙飾りなどで構成され、まるで曼荼羅のような空間が作られています。
神事がいくつも行われたあと、まつりの中心である舞が始まります。
祭りが始まるとまず舞が始まります。
舞には、市の舞(一人舞)、地固めの舞(二人舞)、花の舞(子供の舞)、三つ舞(三人舞)、四つ舞(四人舞)、湯囃子とありますが、湯囃子を除くそれぞれに、扇・やち・剣など3種類の舞(花の舞は別)があります。
この舞の間にまず山鬼が登場し、間を空けて最も重要とされる榊鬼が登場しひのねぎ、みこ、おつるおひゃら等もそれに続いて登場します。
「榊鬼」の登場で会場は大いに盛り上がり、ひのねぎが見物人に味噌を塗りたくりに登場し大騒ぎとなり、もう一つのクライマックス、湯囃子に向かいます。
湯囃子は、最後に舞庭の釜に焚べられた神聖な湯を浴びることで息災に過ごせるといわれ、盛大に湯を浴びせられます。最後に獅子が登場して祭りは終わります。
さて、平安時代のおわりから室町時代にかけて、この地域を流れる大入川が流れこむ天龍川は、紀伊半島に位置する熊野三山から、信州の諏訪大社へと行き来する修験者たちの修行路でした。
修験者たちは天龍川流域の村々にさまざまな修験道の行事を伝えましたが、その中心は村人たちの穢れを祓い、災いを除く「湯立」でした。
三遠南信地域の霜月神楽が今も「湯立」を中心にしているのはこのためです。
歴代の天皇たちに篤く信仰された熊野修験道はその後、承久の変などによって衰退し、熊野三山を落去した多くの修験たちが全国の各地に土着しましたが、戦国から安土・桃山時代、奥三河にもこうした修験者が移り住みました。
この地域に住みついた修験者たちは、修験道の教義を村人たちに理解してもらうため、湯立の祭儀を土台に、当時都で流行していた芸能を採り入れて大神楽を創出しました。
神仏と村人たちが交遊する「神遊び」の主体は、「舞庭(まいど)」で舞われる数々の舞にあります。
「舞庭」と称されているように、それは舞台ではなく、まさに庭です。舞を舞う舞手も村人と同じ位置で、同じ目線で舞を舞います。舞手たちは舞庭に降臨した神仏が依り付いた神仏です。
村人たちは、神仏の顕現した舞手と共に舞うことで神仏と交遊し、神仏から穢れを祓われ清められ、新しい生命力を授かるのです。
それにしても、この祭りの鬼とは、いったいどのようなものなのでしょう。
花祭を創出した修験者たちの始祖である役小角は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといいます。彼には、前鬼と後鬼という二体の鬼が付き従っていました。鬼は自然界を統べる神と人間との橋渡し役となり、鬼の面を被り舞を踊ることでその力を人々に授けることになるのです。
そして、花祭りでは、さまざまな鬼が登場します。
中でも「榊鬼(さかきおに)」は最も重要とされる鬼で、大地に生命力を吹き込み、五穀豊穣をもたらす鬼といわれています。 鉞(マサカリ)を振るって舞う鬼と共に舞う村人たちも、鬼の強力なパワーを授けられ、強力な身体と魂を得て生まれかわる、生成・再生を体感するのです。
奥三河の花祭りは、鬼と村人の間の対立と和解を描く祭りです。
鬼は、村に入ろうとするときは恐ろしい姿で現れますが、村に入った後は優しく親しみやすい姿に変わります。この鬼の変化は、鬼が村人たちに受け入れられることで、村の一員になることを示しています。また、鬼は、村の豊穣や繁栄を願う神としても尊敬されています。
この祭りは、鬼と村人の間の相互理解や共生を促す祭りと言えます。
奥三河の花祭りの見どころは、鬼の面や装束、鬼と村人の間のやりとり、鬼の舞などです。鬼の面や装束は、地区によって異なるデザインや色があります。
この祭りは、修験道の影響が濃いもので、目につくのは五色のカラフルな飾りです。しかし明治になり、廃仏毀釈の流れの中で神道化させた「神道花」にした地区もありました。
こうした地区では「古事記」などに則ってまつりを再構成し、修験道の象徴の一つの五色を廃し、白一色の飾りにしました。また山見鬼などの鬼についてはその角を切り落として、「猿田彦命」「大国主命」「須佐之男」といった神名にしたり、獅子を大蛇に見立てて「大蛇退治」といった演目を仕立てるなど、明治の先人達の苦労がうかがえます。
いずれにせよ、鬼と村人の間のやりとりは、鬼の日と前夜祭で対照的に変化します。
鬼の舞は、鬼が神社に向かって舞いながら進む様子が見事です。
この祭りを見ることで、鬼と村人の関係や、奥三河地方の歴史や文化に触れることができます。