甲州街道訪ね歩き

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鬼の意義


 豊橋鬼祭は、安久美神戸神明社で行われる祭りで、神社の創建は940年(天慶3年)にさかのぼります。
豊橋鬼祭の由来は、諸説ありますが、最も有力なのは、平安時代にこの地を訪れた行基が、疫病退散や五穀豊穣を願って鬼を退治する神事を始めたことであるという説です。
 また、別説では、この地がかつて鬼の住む森であったことから、鬼を退治する神事が行われるようになったという説もあります。

 安久美神戸神明社は、伊勢神宮の分霊を祀っており、平将門の乱の鎮圧を祈願した朝廷から神領地として寄進されました。その後、神社の氏子である飽海郷の人々が、五穀豊穣を祈る田楽という農村芸能を奉納するようになりました。

 田楽は、獅子頭や鬼面をかぶった人々が、神楽や舞を披露するものでした。田楽は、平安時代から鎌倉時代にかけて全国的に流行しましたが、豊橋鬼祭の田楽は、日本の建国神話を取り入れて神事として発展しました。
 例えば、赤鬼と天狗のからかいは、荒神である赤鬼を天狗が退散させるという神話を再現したものです。赤鬼と天狗の面は、戦国時代に今川義元が寄進したとされるもので、現在も使用されています。

 豊橋鬼祭は、江戸時代には都市的な祭りとして発展しました。
 豊橋は、徳川家康の生誕地であり、江戸幕府の支配下にありました。家康は、幼少期に豊橋鬼祭を見て感動したという記録が残っています。家康は、後に豊橋に城を築き、城下町を整備しました。

 豊橋鬼祭は、城下町の人々にも親しまれるようになり、華やかな祭りになりました。
 赤鬼と天狗のからかいは、町内を練り歩くようになり、見物客に白い粉と飴を撒くようになりました。白い粉と飴は、赤鬼の浄罪と人間への恩返しを表すものでしたが、白い粉を浴びると厄除けになるという信仰も生まれました。

 豊橋鬼祭は、江戸時代から現代まで、古式を崩さずに継承されてきました。1954年には、愛知県指定無形民俗文化財に指定され、1980年には、国の重要無形民俗文化財に指定されました。現在も、豊橋の人々に愛される伝統行事として、毎年2月に開催されています。