八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史


蝦夷地七重移住と千人同心

蝦夷地開拓と千人同心 幕府は200年あまりもの間、鎖国を続けていましたが、安政元年(1854)、アメリカとの間に日米和親条約を結び、開国の第一歩をふみ出しました。

 これにより、箱館・下田の二つの港が開かれ、外国船が来航するようになりました。
 幕府は、このあわただしい状況にそなえ、安政2年に、蝶夷島を松前小藩に支配させてはおけないとして再び幕府の直轄として箱館奉行所を置きました。

 蝦夷地を管理する為に箱館奉行所を設置し、あわせて内地からの移住の奨励と蝦夷地の開拓の指導に重点を置きました。

 この時の箱館奉行は開墾興産を重んずる拓殖方針を打ち出し、開拓者誘致の方策と御手作場と称する半官半民経営の営農方式を実行するとともに勧農係を設け農事指導をも行っていました。

 この頃、幕府は蝦夷地の開拓と警備にあたらせるため、志願者を募っていました。そして開拓者誘致の方策として、安政2年(1855)幕府は旗本500石以下の者に蝶夷地在住、妻子同伴を許したのです。

 これにより、翌安政3年(1856)と安政5年(1858)の2回にわたって八王子千人同心計40名が七重に移住したのです。
 八王子千人同心といえば幕府から禄を貰い、用務のほかは在郷にあって百姓の仕事もしていたので、開拓と警備にはまさに即戦力の人達といえるでしょう。

蝦夷地開拓と千人同心 まずは秋山幸太郎をはじめとする15名が七重村に入植します。後に七飯町の町名由来のひとつとなる飯田甚兵衛もこの頃に移住してきました。
 
 七重に着いた一行は、幕府が経営していた七重薬園附近などに農地を得て、御薬園を管理していた栗本鋤雲を助け、桑や楮などを植えたり機織や製紙などに従事したりしていたといわれています。

 この、桑、楮の栽植には千人同心世話役の秋山幸太郎がよく働き、桑の成功は養蚕に結びついていきました。

 しかしながら、八王子千人同心隊たちの暮らしは、決して安定しているものではありませんでした。
 特に明治維新の余波は想像以上に大きく、大政奉還後の混迷の最中、七重に在住していた平山金十郎、花輪五郎といった郷士が、旧家の復興をはかろうと、箱館府知事だった清水谷公考を奪ういわゆるクーデターを画策するのです。
 結局、裏切りによって未然に防がれてしまうのですがったものの、平山金十郎は逃亡、花輪五郎は証拠である連判状を飲み込み箱館戦争と千人同心証拠を隠滅し他の仲間達を助けるという顛末をむかえ、この計画に携わったその他大勢がわからないままの解決となりました。

 そのため、七重村に在住する千人同心たちには、主犯格の組織と関わりがあるのではないかという疑惑の目が向けられてしまいます。
 そのこともあるのでしょうか、榎本武揚らが鷲ノ木へ上陸し箱館戦争が勃発すると七重在住の千人同心たちは、これまでの疑惑をはらさんといわんばかりに、箱館府在住隊として黒沢伝之丞の指揮下に入り戦争に参加するという決断をしました。

 しかしながら、七重にいたもともと幕臣でもある千人同心である32名が、旧幕府軍に合流していた千人同心改め千人隊と戦うというあまりに残酷な悲劇がここにありました。