八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
蝦夷地開拓と千人同心
千人同心は伝統と誇りのある組織でしたが、平同心たちは武士と農民の間の地位に不満がありました。
商売がうまくいってそれなりに富めている者もあれば、勤番などの出費がかさんで借金まみれになるもの、借金が返せずに同心株を売り払うものも出る始末です。
このままでは、千人同心自体が崩壊する。いわば、千人同心の雇用対策が待ったなしとなっている状況でした。
そんな頃、元文4年(1739年)、ロシア船が測量のために日本近海に現れ、日本との接触が始まりました。ロシアは積極的に南下し千島列島もロシア領になっていきました。
このような状況下、なんとしてでも、蝦夷地の確保が急務となってきました。
幕府は津軽・南部両藩に蝦夷地の警備を命ずることになりますネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を設け、警備にあたる体制をとりました。
派遣の藩士は毎年500名。さすがにそれほど裕福ではない両藩にとっては、これは大きな負担だったと思われます。
徳川幕府は非力な松前藩から東蝦夷地一体の領地を召し上げ幕府直轄領としたのでした。
これらの状況を考えて、千人同心の原半左衛門は、同心の二、三男らをひきつれて蝦夷地の開拓と警備にあたりたいと幕府に集団移住を願い出るのでした。
寛政11年(1799年)に、事態の打開を図るため、幕府の老中松平定信は、かねてより願いを出されていた蝦夷地の開拓と警備とを、千人同心に命じることにしました。
寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子から組頭原半左衛門を隊長に弟新介を副士として同心子弟100人を伴って蝦夷地に入りました。
半左衛門は50人を引き連れて白糠へ、新介は勇払に入り、警備、開墾などに従事しました。
さらに千人同心の河西祐助は原隊とは別に幕吏の見習いとして妻子を連れて勇払に入りました
白糠と勇払は、蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所です。交通の要所の警備と開拓。これが八王子同心にあたえられた第一の使命でした。
しかし、蝦夷地開拓といっても、実は、雇用対策の面もあったので同心たちの子弟、厄介人たちで構成されていました。
同心隊は粗末な小屋を建て、防備と開墾に精を出し、後の屯田兵の先駆けともいえる存在だったのでしょう。
千人同心は、道路開削なども手がけましたが、移住した同心たちは、慣れない土地での農作業は、苛酷な自然環境などで不毛の原野の開拓は思うように進みませんでした。
同心たちは、これまでの八王子・多摩の暮らしから農業自体には慣れていたのでしょうが、そこは蝦夷地のこと、荒涼とした原野と、厳冬の生活は、それは彼らの想像を絶する厳しさであったのでしょう。そもそも寒冷地農業はまったくの未経験ということなのですから。
それにしても蝦夷地がいかなる場所であったのかという現地情報が圧倒的に少なく、寒冷地対策が十分ではなかったこと、満足な食糧もないなかで栄養失調になるものが続出するのでした。
1年目にして浮腫病、壊血病などで死者・帰国者が 相次ぎ、苫小牧市史によると勇払隊65人のうち16人が2年間で客死したと記録されています。
享和元年(1801)移住第二陣が八王子を出発しますが、こんな有様を聞いていたのか人数は半分にも満たない30人であったといわれています。
そして入植4年目1804(文化元)年にして蝦夷地開拓は断念され、同心たちは函館などに烏合離散することになります。
なお、弟新助の勇払隊は地味の乏しい勇払の地での開拓を早々にあきらめ、主力を鵡川に移し『鵡川畑作場』を営んだとの記録があり、ここではある程度の収穫があったとされていますが、さすがにそれでもひと冬を乗り切るのに十分とは言えない収穫量だったようで、数年後には鵡川の地も引き払うことになります。
結局、移住隊総計130人の蝦夷地での死者総数は33人にも上ったそうです。
失敗の原因は、千人同心だけでなく幕府にもあります。
幕府の蝦夷地政策は一貫性に乏しく、紆余曲折します。
また、移住隊は妻子を連れてくるものもありましたが、多くは独身でした。
半左衛門は彼らのために新潟から女性を連れてくるよう幕府に懇願しますが、これは認められなかったようです。
ましてや現地のアイヌ女性も当然認められません。幕府の形だけのバックアップではプロジェクトがうまく進まないのは、現代を見ても想像に難くありません。