八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
上野彰義隊と千人同心
慶応4年(1868)京の鳥羽伏見合戦で敗れた徳川軍は、海路江戸にもどります。この動きに対して新政府は、徳川家の当主の慶喜を朝敵として討伐を命じることになります。
徳川慶喜は江戸城を出て、2月12日から上野寛永寺で謹慎します。
新政府軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されるのですが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、渋沢成一郎や天野八郎らによって慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称しました。
新政府はその力を全国に示そうと、江戸の武力鎮圧を計画する。これに対し、和宮や篤姫は、新政府東征大総督有栖川宮に対し、武力発動をしないよう依頼し、3月14日、徳川家陸軍総裁勝海舟と、新政府総督府参謀西郷隆盛の話会いで江戸城の無血開城が決まります。
江戸城が新政府側に引き渡されと、寛永寺にいた徳川慶喜は水戸に引きさがり、水戸の弘道館で引き続き、謹慎することになります。
彰義隊は、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもるのでした。
一方、江戸城を接収した新政府軍でしたが、江戸の治安維持までは手が回らず、旧幕府の、南・北町奉行と、寛永寺に集結した彰義隊に江戸の治安維持を託すことになります。
この状況下、江戸の町では新政府軍の兵士と、旧幕臣との間でいざこざが頻発することになります。
そのころ彰義隊は2000名を超える兵力となり、寛永寺門主輪王寺宮能久親王が彼らを擁護することになります。
この彰義隊の動きに呼応して八王子の千人隊の一部は「上野御霊屋警護」を目的に江戸に参じていました。
彰義隊において八王子千人同心は「八王子方」と呼ばれ、歩兵奉行格の多賀上総介の配下に入り、千人頭の河野仲次郎、日野義順、石坂鈴之助、山本錦太郎が統率して麻布広尾の祥運寺を拠点に上野寛永寺、芝増上寺の警護にあたっていました。
そんな中、北関東に引き下がった旧幕臣の一部が、勢力を伸ばし始め、新政府は江戸の鎮静化を急速に進める必要がでてきました。
ついに新政府軍は彰義隊の討伐を決定します。
慶応4年5月15日(1868)雨が降りしきる中、新政府軍の大村益次郎が東征軍の最高指揮権を握って、午前7時頃から黒門口(広小路周辺)や側門の団子坂、背面の谷中門などで戦闘が開始されます。
新政府軍約10,000名に対し彰義隊は約4,000名とも言われましたが、いよいよ戦争が間近と考え奔走、脱走する者も多く続出したようですので、実際には1,000名にも満たなかったという記録もあります。
彰義隊は、寛永寺の土塁を利用し、防衛態勢を取ります。
正午ごろまでは勝敗はいずれとも決しなかったのですが、不忍池の西の、本郷台に陣を敷いた佐賀藩のアームストロング砲が、寛永寺境内を砲撃することで事態は一転します。
寛永寺の山門「文殊楼(吉祥閣)」は、上野台地の脇に建つ巨大な建築物でしたが、江戸城天守が消失した後は、江戸市中において最高の高さを持つ建物の一つでした。この山門から江戸の町を見下ろせたのです。
彰義隊も当然この山門を物見櫓として使っていたのです。
佐賀藩の砲の目標はこの山門が中心であり、相次ぐ砲撃で山門は炎上したのでした。この段階になり、寛永寺の北西に陣を張っていた長州軍を中心とする一隊が、寛永寺の谷中門付近を攻撃し、境内突入を図ります。
この事態に彰義隊は対応できず、隊員の多くは、北東方向に逃げ、一部は本営とした寒松院付近で討ち死にします。彰義隊の戦死者は266名でした。
不意を突かれた彰義隊はこのように壊滅的な打撃を受け、わずか1日で壊滅、敗退するのでした。
八王子方の詳しい記録はありませんが、上野に入った一隊は旗色悪く大方は脱走、多賀上総介に属した祥運寺にたてこもった一隊は増上寺から築地の多賀上総介屋敷にたてこもり、千人同心の原子剛が戦死しています。
何れにしても八王子方は八王子に逃げ帰ることになります。また、生き残った武士は宇都宮・会津に向って落ちのびて行くのでした。
この上野戦争の責任は、千人頭の河野仲次郎と河野組に所属する組頭日野信蔵がひとえに負うことになります。
八王子に出張した掛川藩兵に首謀格として河野仲次郎、日野義順が捕らえられ、甲府の一蓮寺に幽閉され、居宅を召し上げの処分を受けたのです。ほかの者たちは免罪となりました。