八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
戊辰戦争と千人同心
薩摩藩の島津久光らによる公武合体政策の成功の見通しが立たなくなると、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を目指すようになりました。
そして、ついに朝廷から討幕の密勅が下されましたが、慶応3年(1867年)10月14日にいきなり将軍・徳川慶喜が政権返上を上奏、これにより大政奉還が成立したことで、討幕の密勅は事実上、取り消されることになります。
ところが朝廷は諸条件を付ながらも、徳川慶喜に引き続き政務を委任し、将軍職もしばらくは従来通りとしたのです。
この徳川慶喜による政権掌握を良しとしない薩摩・越前・尾張・土佐・安芸藩の5藩が反抗し、王政復古の大号令にて幕府廃止と新体制樹立を宣言しました。
そこで、西郷隆盛は武力によって幕府軍を倒そうと考えます。
なんと、薩摩藩士に命じて江戸で強盗や放火などの挑発行為を行わせ、旧幕府軍を挑発し、旧幕府軍が薩摩を攻撃するように仕向けました。
これらの行為に激怒した旧幕府軍は、江戸の薩摩藩邸を襲撃します。
見事に西郷の術中にはまってしまった旧幕府側、薩摩藩へ戦争をけしかけたという既成事実をとりつけた新政府軍は、旧幕府軍と戊辰戦争へ突入していくのでした。
ついに慶応4年1月2日(1868年1月26日)、戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いが開戦しました。場所は京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われ、鳥羽伏見の戦いはこれらの地名が由来となっている戦いです。
薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍約5,000人と、旧幕府軍15,000人との戦いは、旧幕府軍側が最新型小銃など装備で上回っていましたが苦戦、後退が続きました。
最終的に1月6日夜、徳川慶喜が大坂城から江戸へ退却したため、旧幕府軍は戦の目的を失い、各藩は戦いを停止、一部は江戸方面へと撤退することとなります。