八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
千人同心の生活
『新編武蔵風土記稿』には「千人町へ入ることわずかにして追分あり、右は久保宿左は即ち甲州街道にして、千人町の通りなり、中ほどより北へ折れ、三町ばかりの横町あり、縦横すべて千人頭及び組に属するもの門戸をならべて許多あり」とあります。
現在、JR中央線西八王子駅北側に「千人町」という町名がありますが、千人頭10人と組頭クラスの同心約100人はここ千人町に屋敷を与えられ住みました。
しかし、他のほとんどの同心は八王子やその周辺の村に住み、農耕にも従事していました。
幕末の嘉永7年(1854)、組頭・二宮光鄰が作成した「番組合之縮図」によると、当時の同心在住村は、東は三鷹市、川崎市登戸、南は相模原市、西は津久井郡、北は飯能市と広域にわたっていたことがうかがえます。
ところで千人頭10人は幕府・槍奉行配下の旗本身分で200石~500石の知行地を与えられていました。
また、組頭と同心は切米・扶持米を支給される御家人の身分でした。
一方、組屋敷に住む90人ほどの同心を除いて、平同心はというと半農・半士の生活を営んでおり、平常時は百姓そのものです。
また、本来、旗本御家人には副業を認められていませんが、ある意味、千人同心は、半農・半士、二足の草鞋(わらじ)をはいていたという見方もできます。
また、千人同心に対し家康は甲州絹の売買権を与えたとの記録もあることから、この特権を利用して、財をなす者がいても不思議ではありません。
しかし、こんな中途半端な立ち位置では、時が流れると財を成す者がいる一方で没落するものも続出します。
確かに日光勤番を行えば幕府からの給金・特別手当も出ましたが、それだけではとても足りず借金に借金を重ねて生活に困窮する者もでました。
幕末のころになると、同心たちの生活は極めて貧しいものとなっていきました。
幕末の侍たちがそうであったように商人から多額の借金さえ抱える同心たちも多かったようです。
また、同心の世襲は認められていたものの財産分与などには制限があったため次男坊・三男坊は、食い扶持探しに苦労した者も多かったようです。
よく時代劇などで旗本の三男坊が、金を使いたい放題、やりたい放題の生活をする場面が出てきますが、千人同心に限っては、そんな生活は無理、貧乏な生活でした。