八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
家康の台頭と地盤固め
国を統一した豊臣秀吉の支配下にあって、家康の所領は大きく変化し、関東八州を与えられ、従来の三河から江戸に移封されるのでした。
さて、江戸に新たに城を築き、関東の領主となった徳川家康は、まずは、領内の治安を保つ必要が生じました。
そこで、考えたのが甲斐武田氏の遺臣を集めて小人頭とその配下を、甲斐と武蔵の国境警備、治安維持、及び甲州道の警備のため、八王子へ配置することでした。
旧武田の家臣たちにとっても、武田滅亡の中で、優秀な武術を持ちながら路頭に迷う者もいたわけで、それをうまい具合に取り込み再活用したのが、徳川家康といえるでしょう。
家康といえば、元亀3年(1572)、武田軍との「三方ヶ原の戦い」で惨敗を喫していますが、この時家康自身は自刃を覚悟したというほどに生涯の中で最も不覚な戦いであったと述懐しているほどに武田軍団の強靭さ、結束力の強さは、痛感していました。
また、武田軍団は先祖伝来甲斐国とその周辺の地理を熟知しているわけで、敵に回せば恐ろしい軍団である反面、支配下に取り込めばこれほど力強い軍団はなかったはずでした。
江戸時代に書かれた地誌『桑都日記』の天正18年7月の記述には、「甲州の小人頭を八王子郷に移し、甲州口の保障となす」 とあるのが認められます。
また同書には、「この年6月23日、城陥りし後、土地未だ静謐ならざるなり。ここにおいて小人頭及び小人をこの地に移し、以て警備をなす」との記載があります。
また、発足当時の状況について、徳川幕府の正史『徳川実紀』にはこう書かれています。
「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。その理由は、八王子は武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)
確かにその頃は、まだ、家康の地盤は確固たるものとは言えず、武田や北条の残党は八王子周辺にかなり散在していたはずです。
こういった残党の動きを封じ、あるいは根絶やし、さらには万一、甲州街道を使って敵が攻め寄せた場合、江戸からの援軍が到着するまでの間、武蔵と相模の国境にある小仏峠にて、防衛線を築くことからも、かつて武田軍団にて境口の道筋奉行として活躍した九人の小人頭と小人・中間たちの軍事力及び経験は、家康にとり、これほど頼りになるものは他にはなかったかもしれません。
また、慎重な家康のことですから、江戸城を築城するにあたっても、万一の落城の場合も考えていたようです。
江戸城の甲州街道の端緒の「半蔵門」を搦め手門として、万一攻められ江戸城が陥落した場合は、この半蔵門より甲州街道を一気にひた走り、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事も想定していたようです。
落ち延びようとする際、その経路において残党狩りにあったのではたまりません。甲州街道、特に、要所となる八王子地区を絶対安全な地としておく必要があったとも考えられています。
なお、研究者の間では、武田遺臣団をかかえた理由には、単に警備強化といった目的以外に、武田家の金山採掘や当時抜きんでた治山治水の手法を得ようとしたともくろんでいたとも言われています。