八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達
武田信玄の死により跡を継いだ武田勝頼は、三河まで進出したものの織田信長との天正3年(1575)長篠の戦いで大敗北を喫し、その後は次第に後退し、ついに天正10年(1582)織田軍の侵攻を受け、3月11日天目山下の田野にて夫人、嫡男信勝等と共に自刃し、ここに甲斐武田氏は滅亡しました。
国を統一した豊臣秀吉の支配下にあって、家康の所領は大きく変化し、関東八州を与えられ、従来の三河から江戸に移封されるのでした。関東の領主となった徳川家康は、まずは、領内の治安を保つ必要が生じました。そこで、甲斐武田氏の遺臣を甲斐と武蔵の国境警備、治安維持のため、八王子への配置するのでした。
警備強化と治安維持のため武田旧家臣で組成されていた八王子衆に、八王子周辺の有力農民や浪人500名を加え、100人(千人頭1名、組頭10名、平同心89名)の10組、合計1000人の大部隊を組成するのでした。八王子衆は「八王子千人同心」と呼ばれる幕臣として正式に江戸幕府の職制下に組み込まれます。
現在、JR中央線西八王子駅北側に「千人町」という町名がありますが、千人頭10人と組頭クラスの同心約100人はここ千人町に屋敷を与えられ住みました。しかし、他のほとんどの同心は八王子やその周辺の村に住み、農耕にも従事していました。
「日光東照宮」の豪華絢爛な美しさは圧巻です。しかし、雷や火事、暴風雨などの災害から、この建物群を200年以上にわたって大切に守ってきた人々がいたからこそ、世界に誇る日本の文化財となったことを忘れてはいけません。そして東照宮を守ってきたのは、日光勤番の八王子千人同心でした。
東照宮は徳川家臣にとっては、まさに心の支えですので、板垣退助はこれを接収することで精神的支柱を奪うつもりだったのでした。このことは千人同心たちにとっても耐え難い苦痛でした。しかし石坂弥次右衛門は同心たちを説き伏せて、新政府軍に東照宮を明け渡すことを決断したのでした。
千人同心の原半左衛門は、同心の二、三男らをひきつれて蝦夷地の開拓と警備にあたりたいと幕府に集団移住を願い出、寛政11年(1799年)に、幕府の老中松平定信は、これを認めます。しかし、そこは蝦夷地のこと、荒涼とした原野と、厳冬の生活は、それは彼らの想像を絶する厳しさでした。
蝦夷地七重に着いた一行は、幕府が経営していた七重薬園附近などに農地を得て、御薬園を管理していた栗本鋤雲を助け、桑や楮などを植えたり機織や製紙などに従事したりしていたといわれています。しかしながら、八王子千人同心隊たちの暮らしは、決して安定しているものではありませんでした。
近代装備を身に付けた千人同心は日光火の番の一方で、将軍家茂の警護、甲府城を天狗党の攻撃から守るべく出動、開港地横浜の警備、長州征討への従軍というように、休みなく動員されます。慶応元年、千人同心は、陸軍奉行の支配下となり、翌年、幕府の兵制改革により「千人隊」と改称されます。
慶応4年1月2日(1868年1月26日)、戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いが開戦しました。場所は京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われ、鳥羽伏見の戦いはこれらの地名が由来となっている戦いです。
板垣退助率いる新政府軍は新選組発祥の地である多摩地方を、思っていたより厳しく巡検しなかったようです。板垣退助は、八王子千人同心は武田の旧臣であるから、本来、徳川家には怨みはあっても恩などないはずなので、今後は朝廷のために生きよと言い残し、八王子千人同心には何の咎めもなかったという。
彰義隊の動きに呼応して八王子の千人隊の一部は「上野御霊屋警護」を目的に江戸に参じていました。彰義隊において八王子千人同心は「八王子方」と呼ばれ、歩兵奉行格の多賀上総介の配下に入り、麻布広尾の祥運寺を拠点に上野寛永寺、芝増上寺の警護にあたっていました。
箱館戦争時には、秋山幸太郎初め蝦夷移住組の八王子千人同心たちは、峠下村関門警護についており、旧幕府軍と戦う事になります。旧幕府軍に合流していた千人同心改め千人隊同志と八王子千人同心の蝦夷移住組32名が、故郷から遠くはなれた蝦夷の地で、なんと敵味方の立場に別れて戦わなければならなかったのです。
八王子千人同心は武装解除され、新政府は、幕臣と同じく千人隊士にも朝臣となるか、徳川家に従って駿河に移住するかの選択を迫まります。中には新政府に出仕した者もいましたが、大多数は「脱武着農」、すなわち武士を捨て農民として多摩地域で生きる道を選んだのでした。ここに八王子千人同心は完全に消滅します。
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