八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
千人同心誕生
さて、千人同心の組織化には、大事な立役者がいます。
天正19年(1591)に家康から関東地方一帯の支配を一任されていた関東代官頭・大久保長安が八王子を所領として与えられますが、これがその人です。
慶長5年(1600)に家康が「関ヶ原の戦い」で覇権を確立すると、大久保長安は家康に甲斐国境に当る甲州口の重要性を説き始めました。
そして、警備強化と治安維持のため武田旧家臣で組成されていた八王子衆に、八王子周辺の有力農民や浪人500名を加え、100人(千人頭1名、組頭10名、平同心89名)の10組、合計1000人の大部隊を組成するのでした。
ここに至り、八王子衆は「八王子千人同心」と呼ばれる幕臣として正式に江戸幕府の職制下に組み込まれたのでした。
そうです、「千人同心」の「千人」の名の由来はここにあり、この時点で、八王子千人同心が正式に発足したわけです。
文化13年(1816)に書かれた『千人組手控古来之訳記』に、「天正19年(1591)卯春、本多佐渡守殿(本多正信)御取次にて、お頭ならびに同心五百人召し出され候」 とあることからも読み取れます。
また、同書には、「その後、慶長4年(1599)亥春、大久保石見守殿(長安)おおせつけられ、在々所々にまかりあり候、諸家窮人五百人召し出し、都合千人に遊ばされ、御軍役おおせつけられ候」 ともあります。
ところでこの千人という数ですが、当時五万石の大名が負担すべき軍役は非戦闘員である小荷駄隊なども含めて千余名とされていますので、文字通り千名が所属する八王子千人同心はこれに匹敵する戦闘力を有する実戦部隊であったと思われます。
多摩地域は徳川家康が特別な思いを持った地域であると考えられています。というのも三河国に生まれた家康は土を愛しそして農業を愛し、農村共同体の協同精神を重んじたからであり、だからこそこの地域は、幕府直轄地「天領」となっているのです。
ところで、千人同心の「同心」という言葉は、もともとは「同じ心」、「一致団結」して事に進むことを意味しており、これから転じて戦国時代において武将の配下で奉公や軍役を一致団結して行う下級武士を「同心」と呼ぶようになったようです。
時代劇でもお馴染みの「同心」は町奉行所等に属する下級役人の総称となり、江戸幕府職制下では御家人と呼ばれる幕臣も同心に分類されていました。
しかしながら、「千人同心」の地位は幕府内でもかなり微妙な立ち位置であったようです。
組織的には、十組・各百人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けました。
千人頭は200から500石取りの旗本として遇され、組頭は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持から30俵1人扶持です。
このように確かに千人頭は家格、禄高から言っても「旗本」(将軍の直臣で1万石未満の者)といえるものでした。
ところが同心は将軍の直臣であっても城内ではどうやら旗本の部屋に入ることができなかったとの記録もあるようで、将軍への謁見も許されていなかったようです。
その下の組頭や平同心たちも姓を名乗れたこともあり、農民からは武士と見られていながら、上級武士からは農民とみられてしまうような、何とも中途半端な存在で、同心自身もその立ち振る舞いに戸惑いがあったことは想像に難くありません。
また、江戸時代は、全国の大名領や徳川氏の天領においても、兵農分離が原則でしたが、千人同心は、少なくとも平同心については兵農一体といった部分もあり、それ自体が珍しい制度でありました。
それでも千人同心は武士として自らの存在に誇りを持ち、日々精進に努めたのでした。
日常的には、農民同様にせっせと働き、いざ事があるや忠誠と誇りを持って駆けつける、そのために日々の稽古も怠らないとする八王子千人同心のその姿は、鎌倉武士、御家人にもイメージが被ってくるようなある意味最も武士の原型に近い形だったのかもしれません。