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日羅が、死後に天狗の首領格である愛宕山太郎坊〜天狗参上

天狗異聞concept



 天狗の正体はわからないものですから、昔から様々な人物(?)が、天狗ではないかと論じられてきました。このページでは、天狗と同義語としてとらえられている様々な人物を紹介します。


日羅

 愛宕山太郎坊は、八天狗の筆頭で全国愛宕社約800社に祭られており、総元締め的存在です。その前身は聖徳太子の恩師であるともされる日羅(にちら)だともいわれます。

 さて、この百済の官人日羅(にちら)は、6世紀宣化天皇の時代に新羅が任那を侵略しようとしたとき、大伴金村の息子狭手彦(さでひこ)と共に任那へ行き、任那がなくなった後も、そのまま百済へ留まって百済に帰化した日本人で、父親と一緒に百済に留まり、達率(だちそち)という百済で2番目の位まで昇った人物です。

 父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登とされています。当時の日本の帝であった敏達帝は、父欽明帝の遺言である「任那回復」を果たさなくてはならないと考え、そのために日羅を呼び寄せ、知恵を借りようしていたようです。

 敏達12年7月に、「欽明帝の任那復興の願を再確認し、百済にいる日羅の力を借りよう」という詔を出しています。

 このような敏達天皇の要請により日羅は、583年日本に帰国し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上したのです。しかしながらこの際の奏上した策は、その内容が百済にとっては決して有利なものではなかったため、同年12月に百済人によって暗殺されたとされています。

 日羅についてきた百済人にとっては、許し難い祖国への裏切りと映ったのでしょう。そこで、日羅と共に来日した百済の高官が、徳爾(とくに)という低い身分の百済人に、自分たちの船出のあと、日羅を殺すように命じたのだとされています。  

 ところで、『日本書紀』によれば、初め暗殺を試みたとき、日羅の身に火炎の如き光があり、恐れて果たせず、十二月晦日にその光が失われるのを待って暗殺したとされているのです。
 ところが日羅は一度生き返り、暗殺者などについて告げたといいます。
 この他にも聖徳太子と関連づけた奇瑞が伝えられる(『聖徳太子伝暦』)など、異常な力を持っていたとされる人物とされているようです。

 そしてこの日羅が、死後に天狗の首領格である愛宕山太郎坊となったとする伝承があるのです。確かに「是害坊絵巻」の中にも、是害坊を受け入れる日本の愛宕山の大天狗の名前を「日羅坊」としているものがあるようです。最もこの伝承がいつ頃から語られ出したのかはよく分からないようです。おそらく愛宕山の勝軍地蔵の信仰などと併せて広まったものと思われています。

 「是害坊絵巻」の内容は以下のようなものです。
 村上天皇の御世、唐から是害房という大天狗の首長が日本へやってきます。
 愛宕護山の日羅房という天狗に先達を頼み、余慶律師、尋禅僧正、慈恵大師などに験くらべを挑むが、いずれも散々な目にあわされます。
 最後には湯治により回復した是害房は日羅房たちと歌を詠み交わし、本国へと帰っていくのでした。



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