「天狗」の名前の意味は、”天の狗(いぬ)”で、中国語でも「天狗」の漢字が使われていますが、もともと天狗とは中国において凶事を知らせる「流星」を意味するものだったようです。
隕石が大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球は、空中で爆発し、大音響を発するのですが、この凄まじい天体ショーを咆哮を上げて天を駆け降りる「犬」の姿に見立てたのでした。
このように、隕石が落下する様子、あるいは流星が空で輝く様子を、古代中国の人々が「天の犬がいる」と説明したことから、「天狗(てんこう)」という妖怪が生まれたといいます。
また、天狗の名は中国語ではtianguと呼ばれていたものが伝わったもので、黒い「天の犬」は、空に住み月を食べます(月食の時)。
中国には、tianguが月を食べてから吐き出すまでの間(月食の間)にまつわるたくさんの言い伝えがあります。
中国の奇書『山海経』西山経3巻の章莪山の項に、「獣あり。その状狸(山猫を指すと考えられる)の如く、白い首、名は天狗。その声は榴榴の様。
凶をふせぐによろし」とあるように天狐、アナグマに例えられてもいます。
このように流星や隕石、そして月食という不可解な現象を説明するために、古代中国の人々はそれらを妖怪の仕業として扱っているというのです。
中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられていますが、天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられたのです。
しかし、こうしてみると、中国の天狗(てんこう)は日本的な天狗とはかなり容姿が違います。四つ足のライオン、言うなれば麒麟のような格好をしているのです。
また、中国では天狗(てんこう)は子どもをさらう悪い妖怪として忌み嫌われてきたようです。このことは、特に明代の文献(『五雑素』など)に多く記載されています。
「大星従東流西。便有音似雷。時人曰。流星之音。亦曰。地雷。於是。僧旻僧曰。非流星。是天狗也。其吠声似雷耳」
この文章は、日本における天狗の初出である『日本書紀』の記述です。
欽明天皇の時(637年)2月、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れたとあります。
おそらく比較的近くに落ちた隕石だったのではないでしょうか。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などと各々言い合ったのです。
そのとき唐から帰国した時の学者であった僧の旻がこう言い放ったそうです。「流星ではない。これはアマツキツネ(漢字は天狗)である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」 とあります。
旻(本名は日文とも言われる)は、608年に派遣された第2回遣隋使として隋に入り、24年間仏教と易学について学んだ後、632年に日本に帰国しています。
当時の最高の学を極めていた学者が、さも自信たっぷりに「天狗」という外国の新しい概念について奏上するのですから、さぞかしそれを聞いた周りの者の驚きは想像に難くありません。
しかし「狗」をキツネと呼んだのは、諸説あるようです。10世紀以降は天狗を「天狐」と記すようにもなります。例えば、『聖徳太子伝暦』(917年成立)には、旻は『日本書紀』では天狗と呼んだ妖怪を「天狐」と述べたという記述があります。
その頃、天狗は世を騒がせ戦乱を起こすものと考えられるようになっていましたが、狐もまた化けて人々を脅かし騒がせるものと考えられていましたので、両者のこのような共通点から、「天狗」と書いて「あまつきつね」と呼ぶ説が出てきたのかも知れません。
いずれにせよ、この後、他の中国から伝来した他の妖怪達と同様に、天狗は日本に伝わると徐々に日本特有のものに変わっていったようです。
もうすでにおわかりのように、日本における天狗は、「天狗」という名前こそ同じですが狗の形をしておらず月も食べませんので、名前以外に類似する所はなくなっています。
ところで変化したとはいっても、変わらないものがひとつあります。天狗と空の関係です。
天狗と空は、関係が深いようで、大空を翔るために様々な絵画に翼を持った姿に描かれています。翼からわかるように天狗は、隕石や月などもともと大空にかかわる妖怪のためか、最初から飛行能力があったようです。
その後、鼻の高い赤面の大天狗は、後姿を書いたものがあまりないためか、翼をはぶかれていることもあるようです。
一方、部下のカラス天狗や、木葉天狗ははっきり嘴を持ったカラスの顔をしており、立派な翼が描かれています。飛行能力のある妖怪からカラスへ、カラスから樹に巣くい樹上にとまる姿へと連想されていったのでしょう。こういった天狗のスタイルが完成したのは、実は中世後期からなのです。
それまでは鳥の嘴と翼を持った「カラス天狗」が代表だったのです。