甲州街道訪ね歩き

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鬼の意義


 鬼退治の歴史や由来には、様々な説がありますが、以下の三つが代表的です。

(1)山の神と来訪神の説

 この説では、節分の日には死者の霊がやってくると考えられていました。死者の霊には、福の神として村人に幸福をもたらしてくれる来訪神と、妖怪や悪霊となった山の神がありました。

 来訪神とは、日本の古代から伝わる民間信仰の一つで、年に一度、決まった時期に人間の世界にやってくるとされる神のことです。
 地域によって名前や姿が異なり、例えば秋田県の「なまはげ」や石川県の「あまめはぎ」などがあります。
 来訪神は、その地域の豊穣や幸福をもたらすと信じられ、仮面や仮装をした異形の姿で現れ、人々に言葉や贈り物で祝福をもたらしました。

 山の神は、日本の古代から伝わる民間信仰で、山に宿る神の総称です。山は死者の霊が行く場所と考えられ、山の神は祖霊や先祖神とも関係があります。
 山の神は、人間の世界に災いをもたらすこともあると信じられ、節分の日には鬼としても現れるとされました。地域によって名前や姿が異なり、「大山祇神」や「木花開耶姫」などが祀られています。

 節分の日には、山の神と来訪神の両方が人間の世界にやってくるとされました。山の神は、豆まきで追い払われ、来訪神は歓迎されました。
 豆まきでは、鬼の面をかぶった者が子供たちに言葉をかけたり贈り物をしたりし、これは山の神の役割と来訪神の恵みを分け与える行事でした。
 節分の日には、「鬼は外、福は内」と言いながら、山の神を追い払い、来訪神を迎え入れる儀式が行われました。また、まいた豆を拾って食べることで、来訪神の恵みを体内に取り込むという信仰がありました。

 豆まきでは、鬼の面をかぶった者が家々を訪れ、子供たちに厳しくも優しい言葉をかけたり、お菓子やお金を配ったりしていました。
 これは、山の神の役割を果たすとともに、来訪神の恵みを分け与えるという意味がありました。また、家の中では、「鬼は外、福は内」と言いながら豆をまいて、山の神を追い払い、来訪神を迎え入れるという儀式を行っていました。豆まきの後には、まいた豆を拾って食べることで、来訪神の恵みを体内に取り込むという信仰がありました。

(2)追儺の説

 鬼退治の起源については、追儺の説が有力なもののひとつです。
 追儺とは、中国の古代から伝わった鬼を払う儀式で、日本では宮中や寺社で行われるようになりました。
 追儺は、中国の『礼記』にも記されている古い儀式です。季節の変わり目には邪気や疫病をもたらす鬼が現れると考えられていたため、新年の前日である大晦日に鬼を追い払うことで、新しい年を清めるという意味がありました。
 追儺は、日本には飛鳥時代に伝わりました。『続日本紀』によると、慶雲3年(西暦706年)の大晦日に、疫病が流行したことをきっかけに、宮中で初めて追儺の儀式が行われたと記録されています。
 そして追儺は、平安時代には公家や陰陽師などによって広まり、各地の寺社にも儺と関連した行事が根付いていきました。例えば、法隆寺では、毘沙門天が鬼を追う追儺会が行われています。

 また、追儺は、平安時代には方相氏という役者が鬼の役を演じるようになりました。方相氏は、四つ目の面と熊の皮を身につけ、戈と盾を持って鬼を追い出すという役割でしたが、次第に鬼を追う側から追われる側になりました。これは、方相氏が葬儀に関わる役目も持っていたため、縁起が悪いとされたからだという説があります。

 その後、追儺は、江戸時代には宮中で行われなくなりましたが、鬼を追う内容から節分の行事の原形のひとつとなりました。現在でも多くの寺社で追儺式や鬼追式が行われています。また、節分の豆まきや鬼ごっこなどの民間の行事にも影響を与えました。

 なお、追儺の儀式では、方相氏としん子という二種類の役者が登場します。方相氏は鬼を追い払う呪師で、しん子は方相氏に従う子供たちです。方相氏は四つ目の面と熊の皮を着け、戈と盾を持ちます。しん子は黒い衣服を着ます。
 追儺の儀式では、方相氏としん子が宮中を回りながら、鬼を追い出します。その際に、陰陽師が祭文を読み上げたり、貴族たちが桃と葦で作った弓矢で方相氏を応援したりします。桃と葦には魔除けの力があると信じられていました。方相氏としん子が鬼を宮中から外へ追い出した後、さらに鬼を都の外へと追いやるために、四方に矢を放ったり、鼓を鳴らしたりします。これは、鬼を完全に退散させるための行動です。
 追儺の儀式には、鬼と人間の関係や、死と生の対立など、深い意味が含まれているとも考えられています。
 
(3)鬼と人間の恋の説

 鬼と人間の恋の説は、京都の鞍馬山や貴船神社に伝わる鬼退治の物語が由来とされる説です。
 「貴船の本地」は、室町時代後期に成立した御伽草子(おとぎぞうし)で、京都の貴船神社の神々の縁起や由来を語る物語です。
 物語のあらすじは以下の通りです。
 本三位中将は、帝の命令により、美しい女性を迎えるために都を巡りましたが、心に合う人が見つからず、その数は3年間で560人に及びました。ある日、帝の前で行われた扇くらべの催しで、扇に描かれた女房の絵に恋をし、その絵師を探し出すことを決意しました。その絵師は、鞍馬の奥にある鬼国の大王の13歳の娘、乙姫(おとひめ)であることを教えました。
 中将は、清水寺、太秦寺、伊勢大神宮に参籠し、祈誓を立てました。そして、鞍馬の毘沙門天の示現を得て、乙姫に会い、妻になることを願いました。しかし、鬼の大王は人間の中将を差し出せと迫り、乙姫が身代わりとなり、中将は難を逃れました。
 その後、中将は都に送り返され、翌日、半盥(はんだらい)に水を入れて見ると、乙姫の声が聞こえ、その死を知りました。中将は乙姫のために供養を行い、その後、叔母の子を拾い、育てました。その子が13歳になったとき、乙姫が再び生まれ変わったことを知り、2人は結ばれました。
 この物語は、貴船神社の神々の縁起を語るものであり、節分の豆まきの行事の起源ともされています。
 「貴船の本地」が節分や鬼退治の起源とされる理由は、物語の中に節分の豆まきの行事に見られる要素が含まれているからです。
 物語では、主人公である中将定時と乙姫(おとひめ)が鬼の襲撃から逃れるために、鬼の国との出口を封じ、煎り豆で鬼を打つというエピソードが描かれています。このエピソードは、節分の豆まきの行事で「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまき、鬼を追い払うという行為と共通しています。
 また、「貴船の本地」は前述のように室町時代後期に成立した御伽草子(おとぎぞうし)ですが、その中には節分の豆まきの行事が描かれています。この物語は、京都の貴船神社の神々の縁起を語るものですが、このような内容から節分の豆まきの行事の起源、つまり鬼退治の起源ともされています。