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天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪と変貌〜天狗参上

天狗の変遷concept




  平安時代の天狗
  鎌倉時代から南北朝時代の天狗
  室町時代の天狗
  江戸時代の天狗
  明治時代の天狗

室町時代の天狗


天狗物の登場


 室町時代には田楽や猿楽が流行し、その中で天狗を題材とした謡曲(天狗物)が数多く作られました。世阿弥の頃には「鞍馬天狗」「花月」「松山天狗」といった天狗物の名作が成立し、芸術の分野における天狗の人気は頂点に達しました。

 「鞍馬天狗」には鞍馬山僧正坊、彦山豊前坊、白峯相模坊、大山伯耆坊、飯綱三郎、富士太郎、大峰前鬼、葛城山高天坊、比良(次郎坊)、横川(よかわ。覚海坊)、如意ヶ嶽(薬師坊)、高雄(内供奉)、愛宕山(太郎坊)が登場します。
 また、「花月」には彦の山(豊前坊)、白峯(相模坊)、大山(伯耆坊)、愛宕の山の太郎坊、比良の峯の次郎坊、比叡の大嶽(法性坊)、横川(覚海坊)、葛城(高天坊)、山上大峯(前鬼)、釈迦ヶ嶽(金平六)、富士(太郎)などが登場しています。


「鞍馬天狗」のあらすじは以下のようなものです。

 春の京都、鞍馬山東谷の僧は、山の稚児達である平家の公達や牛若丸を伴って西谷の花を見に出かけたのだった。さて、花見の宴を楽しんでいると、その場に、ある山伏が居合わせていたことがわかります。
 場違いな者の同席を嫌がった僧たちは、ひとりの稚児を残して去ります。

 僧たちの狭量さを嘆く山伏に、その稚児が優しく声をかけてきました。
 華やかな稚児に山伏は、稚児が源義朝の子、沙那王のちの牛若丸であると察します。
 牛若は「ほかの稚児は皆今をときめく平家の一族で、自分は源氏だから何かにつけて恥しめをうけ、月にも花にも見捨てられた者だ」と告げるのでした。

 山伏は「花見に貴賎や親疎の区別はないだろう」といい、同情を禁じ得ません。
 そこで、愛宕や高雄、比良、横川、吉野、初瀬などの花の名所を案内し牛若丸を慰めます。
 その後、山伏は鞍馬山の大天狗であると正体を明かし、兵法を伝授するゆえ、驕る平家を滅ぼすよう勧め、再会を約束して、谷を分け雲を踏んで消え去るのだった。

 さて、時は移り大天狗のもと武芸に励む牛若丸は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。
 そこに大天狗が威厳に満ちた堂々たる姿を現します。
 大天狗は牛若の師に対する礼儀正しさをたたえ、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された、漢の張良(ちょうりょう)の故事を語り聞かせます。

 そして平家討滅の兵法の秘伝を残りなく伝えると、牛若丸に別れを告げます。
 袂に縋る牛若丸に、将来の平家一門との戦いで今後も常に影から弓矢の力を添えるべきことを約来し、大天狗は、夕闇の鞍馬山を翔け、飛び去ります。



「花月」


 旅僧(ワキ)「あら不思議やこれなる花月をよく見れば、それがしが童にて失ひし子にて候はいかに、名のって逢はばやと思い候。いかに花月に申すべきことの候」

 花月(シテ)「われ七つの年彦の山に登りしが、天狗にとらわれてかように諸国を巡り候」

 これは、室町時代の世阿弥元清が作った代表的な謡曲「花月(かげつ)」の一節です。本物語の舞台となる英彦山は、筑後・肥前・肥後・日向など、大名から農民までの篤い信仰を集めた山であった。「花月」のあらすじは以下のようなものです。

 九州英彦山の麓に住む者の子供が七歳の時に行方不明となってしまったので、その父は僧となり、我が子を求めて諸国を行脚します。
 都の清水寺を詣でた時、来あわせた門前の男に案内を頼むと、「東山雲居寺(うんごじ)の花月という若い喝食が芸達者で面白いでしょう。
 いつもここに来るからお待ちになる」といい花月を呼び出します。(喝食とは、禅寺で修行する半俗半僧の少年で大声を上げて食事を知らせたことからこう名付けられたが、時には説教に加わったり、芸能に従事したこともあったようです。)

 花月は勧められるままに恋の小歌を歌い戯れ、鶯が枝を飛び交って花を散らすのを弓矢で狙い、また清水寺の縁起を曲舞で舞ってみせるなどして見物人を大いに喜ばせます。
 先程からじっと花月を見ていた旅僧は、これこそ行方を尋ねる我が子ではないかと思い、さまざまの質問をし、自分は父だと名乗ります。
 門前の者は「そういえば、お二人は瓜二つの顔立ちだ」と言い、続いて花月に鞨鼓(かっこ)を打つように言う。

 花月は父との再会を喜び、鞨鼓を打ちながら舞い、簓(ささら)を擦って舞う。それは父と離れ離れになった時のことを舞にしたものだった。
 このように天狗にさらわれてからの身の上話を謡います。そしてこれからは父と共に仏道修行に出ようと、立ち去って行きます。

 花月の作者は不詳ですが、世阿弥の頃からある古い能のようです。世阿弥の作という説もあるようです。
英彦山周辺では、子供が7歳になる頃に、よく神隠しに遭うことから「七つ隠し」と呼ばれました。子供を隠すのは天狗だと信じられ、恐れられていたのです。「花月」は、その代表的例として語り継がれ、能狂言の題材ともなったのでした。



「松山天狗」


 松山天狗の内容は以下の通りです

 仁安年間のこと,西行法師が草深い里である讃岐の松山のご廟所を訪ねるのでした。西行法師は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行くが,とにかく道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒むのでした。
 そこへ崇徳上皇の霊が姿を変えた老翁が現れ「あなたはどちらから来られたのか」とたづねる。
 西行法師は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者です。
 新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第です。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞うのでした。

 そこで老翁は、険しい山道を案内し御陵ご陵前にたどりつくのでした。それにしても院崩御後わずか数年しかたっていないにもかかわらず,あまりにも御陵が荒れ果ててしまっているのでした。
 誰もここを訪ねた形跡も見当たらず、ましてや線香をあげて弔った形跡なんてまったくない。西行法師は涙を流しながら、鎮魂歌をささげるのでした。

 よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 西行は老翁に向かって「院がご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言う。
 すると何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」との院の声が聞こえたではないですか。
 そして、なんと御廟が、がたがたと動き出し院が姿をあらわすのでした。院は西行法師との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞うのでした。
 しかし突然に昔の恨み、つらみを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆく。
 やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてくる。

 「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり。さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる。 
 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ、天子のお気持ちを慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのでした。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
 そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆくのでした。

 これらの作品が成立した背景には、これまで紹介してきたように、天狗の地位が上昇してきたことと関係があるのかも知れません。

 また、室町時代末期には、天狗の容姿に劇的な変化が起こります。怪鳥の格好をした天狗ではなく、高鼻天狗の普及です。この現象の元となったのは、狩野元信(狩野派二代目)によって描かれたとされる天狗の絵といわれています。
 
 鼻高天狗は一般的に、法力が強くより神に近い天狗(大天狗)と考えられています。
 それに対して、法力の弱い天狗は妖怪に近いものとして、小天狗あるいは鴉天狗と呼ばれるようになります。
 大天狗/小天狗の区別があることは、「源平盛衰記」でも見たとおりです。ただ、それを鼻高/鴉と、容姿を区別して考えるようになったのは、この頃からだと言えます。
 それまで、鼻の高い僧侶の容姿で描かれた天狗がいなかったわけではないのですが、このときまで、天狗といえば鳶のような怪鳥と考えるのが一般的でした。

 つまり、いくら神格化されていても化物は化物だったのです。それが、より人間に近い容姿になったのです。この天狗の容姿は、江戸時代においてさらに一般的になっていきます。



天狗と仏教


 平安時代頃から天狗の恐ろしさと強大さは、仏教においてもある意味、うまいように利用されてきたという経緯があります。

 遠野物語には、中国から飛来した「是害坊(ぜがいぼう)」という天狗が日本の天狗と組んで仏教が広まるのを邪魔しようとするのですが、人徳ある僧侶の力で退治され中国に逃げ帰るという話があります。
 これは仏教がいかにすぐれているかという「説話」として取り扱われているのです。

 仏教僧は、厳しい修行の末に悟りを開き、極楽浄土へ生まれ変わることを目的としているわけですが、僧の中で、自信過剰であったり、良からぬ心、この世への執着、愛欲の情、その他様々な理由で悟りを開けなかった僧は、死後「天狗道」に落ちるといいます。

 このように「天狗」とは、現世において知識だけを追い求め精神的な修行を怠った者が変化したものであるとされ、仏教世界の六道(地獄道、餓鬼道、阿修羅道、畜生道、人間道、天道)に属さない天狗道に墜ちたものを言います。

 六道輪廻によればおよそ生命は諸行無常の原則に従いこの六道の中で転生を繰り返すとされ、生前の業のいかんで再びこの世界に生まれ変わるとされます。
 しかし、天狗はすべて,天狗道におち輪廻から見放されてしまうといいます。

 また、多くの場合、天狗は天国にいけなかった悪い人間の悪霊・幽霊のように扱われています。天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴なのです。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表しています。このようにプライドの高すぎる人は、死後天狗になるとされる信仰がでてきました。賢明で博識な人は大天狗になり、無知な人はより弱い小天狗になるとされています。

 天狗にまつわる文献は多数ありますが,「源平盛衰記」の,後白河法皇と住吉明神との問答では,天狗とは,ひたすら傲慢偏執で佛法を信じない仏法破戒の妙門・学匠か,または,仏道に志もあり知恵行徳をもちながら,虚妄の智の働きに邪まされて真実の知恵が働かず,悟りの世界に入れない者とされています。

 仏教の教えにはもともと「天狗道」は無く、はみ出した者を「天狗」と言って恐れ戦く者として片付けています。
 この裏側には、「天狗」を追放して仏教を民衆支配の道具にしようとした当時の支配階級の策略もみてとれます。
 ある意味では外来の新興宗教の仏教に対する、日本古来からの神々を象徴するものが「天狗」だったのかもしれません。



山への尊敬と恐れと山岳信仰


 室町時代を過ぎると怨霊が天狗という思想は薄らぎ、山伏姿の天狗が現れるようになります。この頃には天狗は鬼と同じような存在になり、美しい姫をさらって妻にしたりするような悪さを始めます。
 ただし、鬼はさらった人間は食べるのですが、天狗は決して食するようなことはなかったようです。このように天狗は,この頃には、すでに鬼と同様におそろしい妖怪と化していたわけです。

 天狗はその後様々な形に姿を変えて、脈々と祖霊信仰、修験道、山神・山岳信仰とも連携しながら日本全国に広がっていったのです。

 日本では古来から山は神様の住むところ、または神様そのものと考えられました。この古代神道とも言うべき山岳信仰(民俗宗教)に仏教の行脚や道教の入山修行などが影響し、奈良時代になると山にこもって修行する人たちが増えました。





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