明治時代の天狗の権威は、まさに風前の灯火でした。
明治時代には、国家神道の興隆を目指す政府によって、「神仏分離令」が出され、修験道が政府によって禁止されてしまったのです。このため、天狗は重要な信仰の担い手を失います。
それにともなって、天狗の威厳はさらに失墜してしまいます。
明治政府は、日本が天皇中心の優秀な国になったことを示すために、日本古来の神々が、中国やインド由来の仏よりも偉大なものだということを説かなければなりませんでした。
そのときの基本理念が、「神仏分離」で、明治元年には「神仏分離令」を出されました。これにより、神仏習合形態を取っていた寺社は、神と仏のどちらかを崇めるか決定することを迫られました。
修験道は仏と神の両方を尊崇する、神仏習合を根幹とした宗教であり、どちらか一方のみを尊崇する方式を考案することは不可能でした。
そこで、明治5年には「修験道禁止令」が出され、多くの修験道の山は、神道の形を取らざるをえなくなりました。
山伏と天狗は非常に密接な関係にあるため、山伏の激減により天狗の権威は失墜していきました。
ところで明治初期、和製の紙巻き煙草が売り出され始め、明治16年頃には「天狗煙草」が銀座2丁目で大宣伝を展開します。これが、日本初の大広告とされています。
キセルたばこが主流であった明治時代に、紙巻たばことともにたばこ業界に参入し、成功を収めたは、岩谷松平氏でした。
弟と息子をアメリカへ派遣し、たばこの耕作・製造方法を研究させた後、日本人の嗜好に合わせ、純国産葉を使用した「口付紙巻たばこ」の『天狗煙草』を開発したのです。
赤色に染められた自転車で市中を走り回るなど、今では荷台に大きな看板をだして走る広告トラックも珍しくはありませんが、この作戦は当時としては大胆かつ奇抜で、爆発的な人気ブランドとなったわけです。
今では商品ブランドを確立させ、ブランド名で数数の商品を世にだすマーケティング手法は、当たり前のようになっていますが、『天狗印』というブランドを確立させ、『青天狗』『白天狗』『中天狗』など、商品を続々と売り出した岩谷氏は、時代の先駆者だったのかもしれません。