新選組ゆかりの地
欣浄寺
欣浄寺(ごんじょうじ)は、日野市の浄土宗のお寺で、井上源三郎資料館(井上源三郎生家)の斜め向かいにあります。お寺の前を通る道は現在の甲州街道の道筋ができる前からの道で、甲州方面へとつながっていました。
このお寺には、新選組とゆかりのある人々の名が刻まれた碑や、天然理心流の稽古が行われた場所などがあります。
欣浄寺は、元和6年(1620年)に硯伝という僧が庵を結んだのが始まりです。正保元年(1644年)に、増上寺の長老・超誉という僧が改めて開山しました。明治5年(1872年)には、日野第一小学校の前身になった私塾が、佐藤彦五郎や日野義順によって境内で開かれました。大正7年(1918年)の火災で、山門以外はすべて焼けてしまい、昭和4年(1929年)に再建されました。現在は芝増上寺の教区にあって、大本山知恩院末になっています。
欣浄寺には、井上源三郎が学んだ寺子屋の師、文久3年(1863年)8月に亡くなった千人同心日野義貴の顕彰碑が建てられています。井上源三郎が通っていた寺子屋は、日野宿金子橋(日野駅前郵便局の方)にありました。
寺子屋を主催していた井上源三郎の師は、八王子千人同心でもあった日野義貴です。日野義貴は文久3年(1863年)8月に亡くなり、翌年1864年、この欣浄寺に寺子屋顕彰碑が建てられました。
時期としては、芹沢鴨の暗殺1か月前に亡くなり、第一次長州征伐の頃に碑が建てられたことになります。台座の裏に新選組にゆかりの人々の名も載っています。
井上源三郎は六番隊隊長として京にいましたが、「井上源三良」という表記でこの碑に門人として名を連ねています。
また、世話人として佐藤彦五郎、日野久兵衛、井上松五郎の名も載っています。碑文を書いたのは、八王子千人同心の千人頭、河野仲次郎通聿です。
欣浄寺は、新選組とゆかりのある場所としても知られています。
最初のうち、日野の天然理心流門人は、井上家で稽古していましたが、人が増えたので、井上家向かいの欣浄寺で稽古するようになりました。
さらに人が増えたため、井上家菩提寺でもある宝泉寺に稽古場所を移しました。
そうこうするうち、佐藤彦五郎が日野宿本陣に道場を開いたので、そちらで稽古するようになりました。
欣浄寺では、井上源三郎や土方歳三などが稽古したことが伝えられています。また、井上源三郎が通っていた寺子屋の先生である日野義貴の顕彰碑があり、碑には新選組に関わりのある人物がたくさん名を載せています。
井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで命を落とし、甥の12歳の新選組隊士・井上泰助が首を持ち帰ろうとしますが、重くて隊列を遅れがちになり、京にあった欣浄寺(ごんじょうじ)という、故郷の欣浄寺と同名のお寺の門前に首を埋めました。
その話は泰助の息子の嫁が、年を取ってから語り伝えていたのですが、井上家の目の前に同名の欣浄寺があったため、「おばあさん、欣浄寺は家の前のお寺でしょう」と、年寄りの勘違いと思われていました。その後、京に廃寺になった欣浄寺があったのがわかり、平成二十年に子孫の方が、京・欣浄寺跡の土を持ち帰りました。
ここはそんな、井上源三郎の故郷の方の欣浄寺です。
欣浄寺の墓地には、日野義順の墓のほかに、彰義隊の河野仲次郎や、千人同心の石坂義礼などの墓もあります。欣浄寺は、幕末から明治の歴史に関心のある方におすすめの観光スポットといえるかもしれません。
なお、欣浄寺は、厳かな山門以外は大正7年(1918)2月の火災で、本尊、本堂、庫裡、古記録などすべてを失ってしましました。昭和4年(1929)に再建された本堂には、36cmの阿弥陀如来木像の坐像が安置されています。
新選組ゆかりの地情報 | |
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名称 | 欣浄寺 |
住所 | 日野市日野本町4-16-17 |
アクセス | JR中央線日野駅から徒歩5分 |
営業時間 | |
料金 |