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新選組ゆかりの人々



井上源三郎

 源三郎は文政12年(1829)、日野宿北原にて、八王子千人同心の井上藤左衛門(初代松五郎)の3男に生まれました。諱は一武(かずたけ)。井上家は川中島合戦にも参戦したといわれる武田家の旧臣で、正徳3年(1713)より、代々八王子千人同心を務めています。

 八王子千人同心の置かれていた多摩郡は徳川の庇護を受けていたため、同心だけでなく農民も徳川恩顧の意識が強く、井上家の五人兄弟が徳川恩顧の土地柄で幼い頃から剣術の修行を積むのは、ごく自然な流れでした。
 源三郎は、天然理心流二代目宗家(八王子戸吹の道場)の近藤三助方昌が八王子千人同心だった為、近藤周助から剣術を習っておりました。

 源三郎は稽古に励み、12年の歳月を要して万延元年(1860)に免許皆伝を得ています。また源三郎が門人となって間もない嘉永2年(1849)には、島崎勝太が師・周助の養子となりました。
 勝太が後の近藤勇で、文久元年(1861)に宗家を継ぎます。源三郎は勇と親しく交わりました。

 文久3年(1863)、幕府が将軍家茂上洛警護のための浪士隊を結成することになると、源三郎は同門の近藤、土方歳三、沖田総司らとこれに参加します。実は、

井上源三郎

と沖田総司は従兄弟同士だったという、意外な事実もある。京都で浪士隊(京都残留組)は、京都守護職の会津藩主・松平容保の御預りとなり、やがて新選組と命名されました。井上源三郎は近藤より5歳、土方より6歳年長で、新選組では幹部である副長助勤・六番隊隊長をつとめました。近藤や土方の信頼も厚く、隊士からは「源さん」の愛称で親しまれたようです。

 芹沢鴨の暗殺は、土方・沖田・山南とともに実行しました。
 土方・沖田が寝込んでいた芹沢を布団の上から串刺しにし、芹沢の呻き声で気配をさして起き上がって来た平山五郎の首へ井上の剣が一撃、跳ねて飛んだ平山の首が沖田の足元に落ちたといいます。
 事が終わった時井上は、『闇の剣は二度とぬかねよ』と近藤に呟いたと伝わっています。剣の腕前を伝えるとともに武士としての矜持を持つ彼の性格がうかがい知れます。

 元治元年(1864)の池田屋事件では土方隊の支隊を指揮し、浪士らの捕縛に活躍。わずか四人で屋内へ乗り込んだ近藤達が、激戦の末、危機に迫ったその時、井上が池田屋に到着。

 井上は、二階に駆け上がり一人殺しそして血を吐いて倒れている沖田に剣を振るおうとした浪士を殺し、倒れていた沖田を抱きかかえるように壬生の屯所へと引き上げたといいます。総司が五才の時から源三郎は、剣術を教えたり遊んだり、自分の子供の様に育てていたため、先ずは総司を探し助けたのでしょう。

 また禁門の変、天王山の戦いなどでも奮戦しました。慶応元年(1865)6月の新選組の編成替えでは、源三郎は六番組組頭に任じられています。
 また慶応3年(1867)に新選組が幕府直参に取り立てられると、副長助勤として70俵3人扶持を与えられました。

 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いが始まると、新選組は4日に淀千本松に布陣。大坂から撤退命令が出ますが、まだ永倉新八や斎藤一が迂回作戦から戻ってきていないから、自分も絶対に退けないと頑として引かずに戦い続けるのでした。
 そして翌5日、同地で新政府軍と激戦となり、源三郎も死闘を続けますが、腹部に敵の銃弾を受けて戦死しました。享年40。

 その場に居合わせたという源三郎の甥の泰助(当時12歳)の回想によると、源三郎の刀と切り落とされた首を持って歩き出したが、その首があまりに重いため、それを持ったままでは敵に捕まってしまうと仲間に言われて仕方なくある寺の門前に埋めたという。
 寺の名は不明とされてきましたが、最近の研究で墨染の欣浄寺に首塚が残っていることがわかったようです。

 最後まで徳川家の為に戦いぬいた井上源三郎は、甲州武田の血を受け継ぎ、武士道精神を貫いた疑いようもない多摩最強の剣士でした。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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