大月の鬼にかかわる史跡の数々
桃太郎地蔵
「鬼の盃」の西側すぐ近くの林の前に「石の船」に乗った地蔵菩薩像が立っています。
石の船には、年号はなく「施主、葛野村、強瀬村、下 和田村、岩殿村」の文字が刻まれているのがようやく判読できます。
船に乗ったお地蔵さんの姿と刻字から、「廻り地蔵」として有名な「岩船地蔵」だと考えられています。
「廻り地蔵」の習俗は全国的にみられ、一つの村なかを家ごとに送るものや広い地域を村単位で巡るものもありました。
伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の江戸時代中期の享保4年から10年迄の7年間に集中しているといいます。享保 4 (1719)年頃、下野国岩船山高勝寺(現 栃木県栃木 市岩舟町)を出発し、関東や中部の各地を村送りされ、
一時期大きな信仰を獲得しましたが、その由来や巡行の経路についてはまだ明らかではありません。
この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつに数えられている霊地です。
熱狂的とも云える布教活動は広い地域に及びました。
甲斐の記録では、「信濃を経由して、神輿を奉じ、旗、天蓋を立てた「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がやって来て三味線、尺八、鉦、太鼓で念仏を唱え、踊り子には男女の子供をこしらえ、村々を一、二日ずつ練り歩いて、これを祀った」とあります。
岩船地蔵が送られてきた村では、それを迎えて、華やかな服装をし、賑やかに囃し立て、念仏をし、自村だけでなく、近隣の村々まで巡りました。 そしてそれを受け取った村でも同様に行い、順次村送りされて進みました。
岩船地蔵の熱狂的な信仰は近世におこった流行神仏の一つであり、流行は過ぎ去り、記念の石造岩船地蔵を残しました。おそらくこの「岩船地蔵」も記念として造られ、祀られたものと思われます。
そして多くの土地では、その来歴は忘れ去られ、珍しい姿の地蔵ということのみの存在となってしまったようです。
一方、岩船地蔵は、そののち、その姿から多くは水害、水難などとの関係での新たな意味づけが行れたようです。
ここ大月では、「桃太郎伝説」との関係から、「岩船地蔵」が左手に持つ 宝珠を「桃」に見立て、「桃太郎地蔵」と呼んだようです。船にのったお地蔵様のこの姿も鬼ヶ島に向かう桃太郎そのものだったからでしょう。
でも、ちょっと疑問が生じませんか?
残念ながら大月桃太郎は「鬼が島」ではなく「岩殿山」に出かけたことになっています。ということは船に乗らなかったことになるのでしょうか。
しかし、ご安心ください。大月桃太郎伝説では、大月桃太郎は、生まれ育った鶴島から鬼のいる岩殿山に出かけるのに、いわゆる甲州街道を通ったと考えられます。そのためには、どうしても桂川を渡らなければなりません。鶴島辺りの桂川は、特に川幅が広く、まさか泳いでいったとは考えづらいので、桃太郎は船で渡ったのではないでしょうか。そうなると、この地蔵様の姿も符合してきますね。