大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4000余りの門流をもつ寺であり、開創以来600年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内は樹齢500年以上という杉の美林2万本がある。曹洞宗では北陸永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ大寺院で、堂塔は30余棟に及ぶといいます。
稲荷信仰では豊川稲荷と山形・善宝寺とともに曹洞宗の三大祈祷所となっています。
地元では「小田原道了尊」と呼ばれることの方が多いですが、これは了庵慧明禅師に協力した妙覚道了(みょうかくどうりょう)から由来する寺の名前となっています。
結界門をくぐり右手の77段の石段を登ると、御真殿(妙覚宝殿みょうがくほうでん)につきますが、当山である守護妙覚道了大薩をご本尊に大天狗・小天狗が両脇侍として祀られています。
開山の了庵慧明禅師は、相模国大住郡糟谷の庄(現在伊勢原市)に生まれ、藤原姓を名乗っていましたが、長じて地頭の職につきます。
しかし、戦国乱世の虚しさを感じ、鎌倉 不聞禅師に就いて出家、能登總持寺の峨山禅師に参じ更に丹波(兵庫県三田市)永沢寺通幻禅師の通幻寂霊の法を継いだとされます。
永沢寺、 近江總寧寺、越前龍泉寺、能登妙高庵寺、通幻禅師の後席すべてをうけて住持し、大本山總持寺に輪住したのち、50才半ばにして相模国に帰り、曽我の里に庵を結びました。
そのある日、了安慧禅師の袈裟を1羽の大鷲が掴んでそのまま足柄山まで飛んでいき、大きな松の枝に袈裟を引っ掛けて飛び立っていきました。
高い位置にある袈裟は、了安慧明禅師は坐禅をしたところ肩に落ちてきました。これを何かの前兆であると感じた了安慧明禅師は、その啓示によってここに寺を建立することを決意しました。
山中に大寺を建立、大雄山最乗寺と号します。應永元年(1394年)3月10日のことでした。
ところで、妙覚道了は、相模坊道了とも呼ばれた了庵慧明の弟子で、以前は聖護院門跡覚増法親王につかえ、大和の金峰山、奈良大峰山、熊野三山にて修行していました。
三井寺園城寺勧学の座にあった時、師匠である了庵慧明禅師の大雄山開創に当り、天狗の姿となって空を飛んで、了庵禅師のもとに参じるのです。
そして谷を埋めたり、岩を持ち上げて砕いたりして寺の建設を手伝いました。妙覚道了はひとりで500人分の力を発揮したと言われており、妙覚道了の助力で寺は1年あまりで完成したと言われています。
この怪力は天狗の神通力のなせる技とその霊験は極めて多いといいます。
應永18年3月27日、了庵禅師75才にして遷化されると、妙覚道了は「以後山中にあって大雄山を護り多くの人々を利済する」と五大誓願文を唱えて姿を変え、火焔を背負い右手に杖、左手に綱を持ち白狐の背に立って、天地鳴動して山中に身をかくされたといいます。
以後、諸願成就の道了大菩薩と称され絶大な尊崇をあつめ、十一面観世音菩薩の御化身であるとの御信仰をいよいよ深くしているところです。
現在、大雄山最乗寺の境内には天狗の像がいくつもあり参拝者を見守っています。天狗の下駄にちなみ、世界一というわれる下駄をはじめ、大小さまざまな下駄が奉納されています。
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