新選組ゆかりの地
殉節両雄之碑
高幡不動境内のお札所(宝輪殿)裏、土方歳三像の脇に設けられているのが、「殉節両雄之碑」です。
逆賊という汚名を着せられた新撰組のために、土方歳三の菩提寺に建てられた顕彰碑です。
殉節両雄とは多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方歳三のことです。
明治7年(1874)8月明治政府は今後、戊辰戦争で新政府軍に敵対し「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る太政官布告を出したのです。
そこで、二人に縁の深い小島為政(小野路名主)が発起人となって、小島のまとめた「両雄士伝」をもとに旧仙台藩の儒者大槻磐渓(清宗)に撰文を依頼し、旧会津藩主松平容保公の篆書、旧幕府典医頭松本良順の揮毫による「殉節両雄之碑」が起こされたのです。
当初、篆額は徳川慶喜に揮毫を依頼すべく、佐藤俊正が松本良順を通じ、旧幕臣であり明治以降も徳川家の家令となっていた小栗尚三に申し出たといいます。
慶喜は二度に渡る小栗の願い出でに対し、歳三の「唯死あるのみ。即ち寛典に処すとも吾何の面目あって、また昌宜と地下にまみえんや!」との文言のある碑文を読み、ただうつむいて落涙するばかりで感慨無量の様子であったそうです。
碑文は、さすがに現代人にとっては読みにくく、おそらく何が書いているのはおわかりにならないでしょうが、二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を記して顕彰するものです。
明治9年の銘が入っていますが、内容が単なる慰霊碑ではなく、当時賊軍扱いされていた両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑であったため、碑文を神奈川県に提出したものの建立の許可が貰えず、実際に建つのは、明治21年になります。
許可にこれほどまでに長期間要したのは、「朝敵」とされた二人に対する戊辰動乱の怨念の激しさゆえといえるでしょう。
高幡不動尊 金剛寺まで観光にきたら、必ず立ち寄って欲しい名所のひとつです。
新選組ゆかりの地情報 | |
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名称 | 殉節両雄之碑 |
住所 | 東京都日野市高幡733 |
アクセス | |
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