新選組ゆかりの地
石田寺(せきでんじ)
「土方歳三資料館」からほど近く、新選組副局長土方歳三が生まれた石田村「いしだむら」にある石田寺(せきでんじ)は、真言宗、高幡山金剛寺の末寺です。多摩川と浅川の合流地点にあるこの寺の起源にも川の流れが関っています。
寺伝によると、南北朝時代の康安元年(1361)吉祥坊慶興という僧が建立したものの、永和3年(1377)頃から衰えて一時は廃寺となりました。天文13年(1544)7月9日多摩川に大洪水が起こり一体の観音像が石田に流れ着きました。
それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけになり文録2年(1593)に慶心という僧が一宇を建立、石田寺と号したといいます。
土方家の墓所はこの石田寺にあり、ここに土方歳三義豊の墓石も立てられています。
境内には墓所を示す案内板が立てられており、どこにあるのかを迷うことはありません。
「歳進院殿誠山義豊大居士(さいしんいんせいざんぎほうだいこじ)」という戒名が刻まれた墓石には額に入った遺影が取り付けられています。
5月11日の命日以外でも年間を通して、献花の絶えることは無くファンが訪れ続けています。
しかし、実は、新選組局長・近藤勇同様、土方歳三も未だにどこに埋葬されたのか不明です。明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最終局面での官軍による箱館総攻撃の中、元新選組副長、箱館新政府陸軍奉行並土方歳三は戦死しどこかへ埋葬されました。
戦死地と埋葬地についてはこれまでにいくつかの説が出されているが確定的なものはないのです。遺骨はないものの、公式な土方歳三のお墓は石田寺とされているのです。
さて、お墓参りが終わったら、日野市の天然記念物に指定されている大きなカヤの木にも注目してみましょう。石田寺のカヤは本堂右側にあり、樹高約26m、目通り幹囲4.2m、根元から2.5mの高さから三岐し共にやや北向きに生えています。
枝張りは四方に約5m、かつて南西に張り出した大きい枝を切除したことがあるのですが、今はその跡すら見いだせません。しかし、樹勢は極めて良好で樹齢は400年以上と推定されています。つまり土方歳三が生きていた時代にもここにあった木ということです。土方歳三が仰いだかもしれないカヤの木を見て、彼らが生きた時代に思いをはせてみる時間もいいでしょう。
カヤの木に隣り合って建てられているのが、現在の石田寺再興のきっかけになった十一面観音像を安置している観音堂です。本堂とは向かい合い、北向きに建てられていることから北向観音とも呼ばれて、古くから勝負運に強く、病魔退散、子育ての北向観音として有名です。
カ
ヤの木の下を墓所に進むと右手に「土方歳三義豊之碑」が立てられています。
早くして両親をなくした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄・喜六の曾孫にあたる土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したものです。
1867年12月(慶応3年)王政復古の大号令があり翌1868年7月に江戸が東京と改名、同年9月には元号が「明治」と改元されました。
歳三が亡くなったのは翌明治2(1869)年5月、その時には蝦夷地だった場所も同じ年には名称も北海道に改められ開拓使も設置され、北海道の開拓が本格化していきました。
新選組ゆかりの地情報 | |
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名称 | 石田寺(せきでんじ) |
住所 | 東京都日野市石田1-1-10 |
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