新選組ゆかりの人々
日野義順
日野義順は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した武士、政治家、教育者、殖産家であり、八王子千人同心組頭、彰義隊小隊長、日野町長を歴任しました。彼の生涯は、幕末の動乱から明治の新時代へと移り変わる時代の中で、多くの役職と責任を果たしながら波乱に富んだ生涯だったといえるでしょう。
日野義順は、八王子千人頭河野仲次郎の組頭日野嘉蔵義貴(ひのかぞうよしたか)」の長男として、天保10年(1839)6月13日に生まれました。
18歳のときから戸吹村(八王子市)の松崎和多五郎の道場で天然理心流を修行します。
文久元年(1861)には近藤勇の天然理心流四代目披露の野試合に、一門を代表して出場しており、大将を支える4つの隊の隊長に抜擢されています。この時、義順の配下に山南啓介が付いており、山南が敵大将佐藤彦五郎を打ち取り赤軍が一矢を報いるなど記録されています。土方歳三とも親交があったと言われています。
慶応2年に千人隊と改称する際、河野組の組頭となり、第二次長州征伐では千人隊小司を勤めています。
慶応4年3月甲州街道を西から江戸に向かう土佐藩兵を中心とした新政府軍(官軍)を迎え撃つために近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府を目指すのですが、板垣退助の新政府軍に勝沼で破れ、江戸へ逃げ帰ることになります。
板垣退助はすぐさま甲陽鎮撫隊を追討し八王子、日野へ厳しく探索します。
この時、千人隊は戦う意志なしと新政府軍に恭順を示しました。しかし官軍に従う恭順派の行動に不満を持った非恭順派は江戸へ出て、彰義隊の上野戦争に八王子方として参加することになります。
八王子方の中心的役割は千人隊之頭(旧千人頭)河野仲次郎が担い、河野組の組頭を勤めた義順も河野の副と言うべき地位で参加するのでした。
しかしながら慶応4年5月15日、大村益次郎率いる新政府軍は上野の彰義隊に攻撃をかけ、彰義隊は一日で破れてしまいます。義順と河野は八王子へ戻ってくるが、首謀者として東征軍に捕えられ、甲府の一蓮寺に幽閉され、居宅を召し上げの処分を受けました。2人は吟味の上、預けられが明治2年(1869)1月に解放されました。
釈放後は、日野義順は、多摩の地域住民として再出発の道を選びました。明治6年(1873年)に学制が発布されると、日野義順は教師となり、日野学校(現日野第一小学校)の校長を務めました。教育に熱心で、児童の心身の健全な発達を促しました。また、日野の歴史や文化に関する著作も多く残しました。
また、日野義順は、教育者としての活動と並行して、政治活動にも参加しました。明治16年(1883年)には自由党に入党し、神奈川県会議員に当選しました。自由民権運動にも積極的に関わり、民主主義の理念を広めました。明治23年(1890年)には第1回衆議院議員総選挙に立候補しましたが、落選しました。
そして、明治20年代になると、政治活動から一転して地方産業の振興に取り組むようになりました。東京府農会議員や南多摩郡農会副会長に就任し、農業の近代化や農民の福祉向上に努めました。また、初代の日野町長としても、町の発展に貢献しました。養蚕や桑の栽培にも力を入れ、扶桑社の社長として養蚕研究を行いました。さらに、日野の特産品である日野菊の普及にも尽力しました。
日野義順は、初代の日野町長として同33年10月~同39年4月まで在任し、大正5年(1916年)4月18日に死去、波乱に富んだ一生を終わったのでした。享年78歳でした。彼の遺した足跡は、日野市の歴史や文化に大きな影響を与え、現在でもその功績は称えられています。日野市には、彼の名を冠した日野義順記念館や日野義順像があります。また、彼の墓は日野市の欣浄寺にあります。
新選組の影に隠れ、余り報じられていない日野の剣士の一人といえるでしょう。