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新選組ゆかりの人々



佐藤彦五郎

 日野の宿場を中心に、東光寺、四谷、万願寺、谷戸等を含めて日野本郷と称する三千石の管理にあたっていたのが、代々日野宿の名主を務めていた佐藤家です。

 佐藤彦五郎は、父の早逝のため、天保8年(1837)11才で名主役を相続します。生来克己心が強く、義侠心に富んでいたので村人から敬慕されていた。妻のぶは、土方歳三の実姉にあたります。

 嘉永2年(1849)正月、佐藤家から道を隔てた一軒の農家から火災が発生、強い北風に煽られて佐藤家をはじめ十数軒が類焼するということがあった。

 この火事の最中、彦五郎の祖母と他一人が斬殺されるという異変が起こった。この事件を契機として彦五郎は、内外の攘夷の風潮やまた寄場名主としての村の治安維持防衛の必要を感じるようになる。

 翌年24才のおり、井上松五郎に依頼し、時々この地を訪れる天然理心流三代近藤周助邦武(近藤勇の養父)へ入門。以後、彦五郎は剣術の稽古に熱中し、嘉永7年(1854)2月には極意皆伝の免許を得た。

 その後彦五郎は、自宅長屋門の東側の一角を四間半四面の道場に改造、そのため多摩地方の天然理心流への入門者は急増したといわれ、後年新選組となった土方歳三や沖田総司、井上源三郎が常時出入りして竹刀を振るっていたといわれる。

 文久3年幕府の浪士隊募集に際しては、彦五郎は名主の仕事があるため、義弟の土方歳三を自分の代わりとして参加させ、自らは江戸と多摩に残された新選組隊士の子弟の世話と剣術の指導を引き受けた。
 また、京における困窮期の初期新選組にたびたび資金的援助をした記録が残っている。

 文久3年に日野農兵隊を組織し、慶応2年(1866)相次ぐ飢饉のため武州吾野や名栗などの村々で蜂起した農民一揆(武州一揆)が小宮村(現八王子市小宮町)の地先、多摩川の対岸まで押し寄せたが、日野農兵隊は千人同心と共に闘い、これを撃退した。このため日野宿および八王子宿は打ち毀しの難を免れた。

 慶応4年1月。鳥羽伏見の戦で幕府軍が敗れ新選組も江戸へ退却した。
 その後甲府城を占拠して征討軍の江戸進撃を阻止すべく甲陽鎮撫隊を組織した際、彦五郎は一切の兵糧をうけもった。そして、自ら春日盛(かすがさかり)と名乗って近在の義勇軍である春日隊を組織して甲陽鎮撫隊に参加もしていますが、勝沼の戦で敗退します。

 一家は縁者を頼って身を隠します。新選組発祥の地、日野に入った官軍の佐藤彦五郎家に対する詮議は厳しく一時一家離散の憂き目を見たが、後に放免され、その後初代日野町長、南多摩郡長を歴任し、明治35年9月17日、76才で生涯を終えた。
 寄場名主として、また天然理心流の後見人として、あるいは自らが撃剣士として波乱の人生を送った佐藤彦五郎は、多摩の歴史を作り上げた立役者のひとりです。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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