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新選組ゆかりの人々



井上泰助

 井上泰助は、安政4年12月5日(1858年1月19日)八王子千人同心の井上松五郎の次男として生まれます。叔父は井上源三郎。

 泰助が京都に到着したのは、慶応3年11月3日のことでした。11才の泰助は、同年代の年少隊士らと、翌12月に作成された名簿『京都ヨリ会津迄人数』に両長召抱人の1人として名を連ねています(名簿には井上大助と表記)。
 七条油小路の変、近藤勇狙撃と新撰組を取り巻く雲行きが怪しくなる中、泰助は小姓として仕事をこなしていたものと思われます。同時期に入隊した小姓には市村鉄之助らがいます。
 
戊辰戦争が勃発し、叔父・源三郎が鳥羽・伏見の戦いで戦死すると、その首を持ち帰ろうとするが、重くて運ぶことができず、他の隊士に促されて近くの寺の境内に埋めたという。その後、井上家に戻って源三郎の戦死を伝えた。

 最後まで源三郎を見守っていた泰助は、「おじさん(源三郎)は、普段は無口で温和しい人だったが、一度こうと思い込んだら梃子でも動かない一徹な所の有る人だった。
 鳥羽伏見の戦いのおりも、味方は不利で大阪から引き上げろと言う命令が来たが、少しも引かずに戦い、ついに銃弾に倒れてしまった、弾丸を受けたおじさんは、手当ての甲斐も無く息を引き取ってしまった」と言い伝えたということです。

 この或る寺は京都市伏見区墨染の欣浄寺とも妙教寺そばにあった欣浄寺とも言われています。首塚も存在するが、現在まで発掘調査等は行われていません。

 鳥羽・伏見の戦い以後の泰助については、『横倉甚五郎名簿』に「江戸ニテ暇」とありますので慶応4年3月1日の甲陽鎮撫隊出陣に同行し、故郷の日野に至った折に隊を離れたようだ。

 泰助の姉で松五郎の長女・モトは松本捨助(新撰組隊士)に嫁ぎ、沖田総司の姉・ミツの元には分家から井上林太郎が婿入りし、林太郎とミツの間に生まれた長男・芳次郎のところには泰助の妹で松五郎の末娘・はなが、嫁いでいる。享年71。墓は叔父・源三郎と同じく東京都日野市の宝泉寺にある。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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