新選組ゆかりの人々
土方歳三
新撰組の副長を務めた幕末の幕臣、「鬼の副長」と呼ばれ、剣豪揃いの隊士たちを統率した土方歳三は、天保6年(1835年)5月5日に武蔵国多摩郡石田村に誕生した。
歳三が生まれた時には土方家がすでに長い間石田散薬を作っており、石田散薬の行商をすることもありました。石田散薬は痛み止めのようなもので、打ち身やくじきを癒す効果があったとされています。
歳三は、小さいときは「バラガキ」と呼ばれ人をイバラのように痛めつける乱暴者という評判でした。
11歳のとき上野の呉服店松阪屋に奉公に出されたが、番頭に叱責されて反抗し、そのまま夜道を9里も歩き通し日野まで戻ってしまった。
さらに17歳のときに江戸・大伝馬町の呉服屋に二度目の奉公に出たが、店の女中と関係を持ったことが原因でまたもや奉公を辞めてしまった。
その後、土方歳三は姉の嫁ぎ先である佐藤家に入り浸りました。日野宿の本陣であった佐藤家は、農民自治を主導する地元の指導者でもありました。
この頃親戚の勧めで天然理心流の近藤勇と出会い、江戸におもむいては道場に顔を出し剣の腕を磨いていたという。試衛館では新選組の仲間たちとも出会っています。
天然理心流の沖田総司、井上源三郎、そして他流の食客である、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助といった後の新選組の顔ぶれです。
あるとき、永倉新八がもたらした情報によって彼らの転機が訪れます。上洛する徳川家茂の護衛をつとめる浪士を募集していたのです。これに試衛館の面々は応募して上洛するのです。
浪士組は八月十八日の政変を経て、新選組となり、京都の警護をしていましたが、ある時、御所を燃やして天皇を拉致する計画を立っている危険分子が河原町の宿屋に隠れていると聞き、歳三と近藤勇がそれぞれ隊士を数人率いて手分けして探し、その場所が池田屋だと突き止めました。
そして、祇園祭の夜に、これに突入、成敗したのです。これが「池田屋事件」として話題になって、新選組の名が全国に広まったといわれます。
歳三は副長の座についたが、新撰組の指揮命令は歳三が発していたという。
慶応3年(1867年)、歳三は幕臣に取り立てられる。
しかしこの年、徳川慶喜は大政奉還をしたため、幕府は事実上崩壊した。翌年には鳥羽・伏見の戦いにはじまる戊辰戦争が勃発し、歳三は新撰組を率いて戦うが、銃を使った新政府軍の前に敗北し、洋式軍備の大切さを痛感した。
敗北した幕府軍が江戸に撤退した後、歳三は近藤らとともに甲州勝沼の戦いに参戦するが、敗北。再起を図るが、近藤が新政府軍に包囲されて投降し、処刑される。
その後宇都宮城の戦いに勝利するが、壬生の戦いで敗走した上、負傷してしまい、会津で療養に入る。回復した歳三は会津戦争に参加するが、母成峠の戦いの敗戦を機に激化。仙台、そして蝦夷へと向かう。
蝦夷では五稜郭を本陣とする蝦夷共和国が成立し、歳三は陸軍奉行並として陸海軍裁判局頭取や蝦夷取締といった役職を兼任した。新政府軍襲来の情報が入り、宮古湾海戦に参戦するが、作戦は失敗するも歳三は生還する。
新政府軍の蝦夷地上陸が開始されると、歳三は二股口の戦いで連戦連勝を納めるが、もう一方の松前口が破られたため、やむなく五稜郭まで撤退する。その後新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、歳三は少数の兵を率いて出陣し、馬上で指揮を取った。しかし銃弾に腹部を貫かれて落馬し、絶命。
五稜郭の戦いでは、総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人のうち、閣僚で戦死したのは歳三ただひとりだった。
八人のうち四人までは新政府に仕えて生涯を終わった。
土方歳三は、武士として死に場所を、また盟友近藤、沖田の後を求め、新撰組の一齣を、歴史のページとしたのだった。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ」。
「東の君」がだれを指すのか諸説ありますが、体が死んでも魂は東の君を守りぬくという決意・覚悟の強さを感じる句です。