高月城
滝山城の尾根続きの丘陵、今のあきる野市側の先端にあったのが高月城で、関東管領・山内上杉氏の重臣で、武蔵守護代にあった大石顕重(大石信重の玄孫)が長禄年間(1457~60)に築城した城だと日本城郭大系に記されています。
多摩川と秋川の合流点近くで、比高40m程度の加住丘陵を利用した天然の要害であり、台地は鋭角的な三角形をしており、大きく3つの曲輪が設けられました。
主郭にあたる1郭は最高所(標高152メートル、比高約40メートル)にあり、その南側は堀切で尾根を断ち切っています。東には多摩川、西には丘陵地の断崖となっています。
田中正光の論によると『廻国雑記』に 「前庭に高閣あり、矢倉などを相かねて侍けるにや、遠景すぐれて数千里の江山眼の前に盡ぬとおもおゆ」という記述が高月城を指すものとされていますが、いまだ確証はないようです。
また、大石氏が高月城城主である旨の記述のある大石氏系図については他研究者から信憑性についての指摘がなされており、高月城と大石氏を直接結ぶ確かな史料も実は確認されていないのです。
定説では、1521年(大永元年)、大石定重の代に、後北条氏による武蔵国への勢力が拡大したため、高月城程度の要害性では防衛できないと判断し、滝山城を築き、この高月城は廃城になったともいわれていますが、その後も支城として使われたようです。
というのもその後大石氏は天文十五(1546)年の河越夜戦での上杉氏大敗北によって北条に降らざるを得ず、氏康の三男、氏照を養子に迎えますが、家督を相続した北条氏照が、武田信玄の侵攻に備えて整備したと考えられているからです。
氏照の家臣団構成や支城の統制については詳しいことは分かっていませんが、氏照は、武闘派とされているものの武勇と知略を兼ね備えており、外交にも手腕を発揮したといわれ、このため、豊臣秀吉は北条氏政よりも氏照を恐れていたともいわれています。
その氏照の居城、滝山城からわずか1.5km、しかも多摩川と秋川の合流点に位置するこの城を氏照が放っておいたとも思えません。 滝山城とは尾根続きでもあり、秋川沿いの武田勢の侵攻を想定して、滝山城の出城として、使われていたのではないかと考えるのが妥当でしょう。
現在城址は整備されておらず、三郭は廃業となったラブホ「高月城」、主郭と二郭はすっかり耕されて畑になっています。曲輪、堀切、土塁などの遺構が残っているとのことですが、ちょっと目に探すのは難しいでしょう。
ラブホのあたりに石塁があったといいますが、曲輪は秋川の流れに押されて、だいぶ侵食・崩落してしまっているのが実態であるようです 。
そもそも高月城は、その大半は私有地であるため、城内いたるところに「ここから先は立ち入り禁止」の札が目立ちます。見学には十分注意してください。
高月城には、JRの東秋留駅から徒歩で向かうのが一番早いかと思います。
東秋川橋と円通寺の中間付近、廃業したラブホテルの高月城の看板が目印というのもちょっと意味深ですが、ホテル前を通り過ぎた細い道の反対側に城跡に入る登城口があります。