小田野城
陣馬街道川原宿(かわらじゅく)交差点から南(高尾方向)へ, 西寺方町を過ぎるあたり,左側に小高い丘陵がつらなります。
ここ都道61号線の小田野トンネル上の丘には戦国時代の城郭「小田野城」があったことが知られています。
バス停「タウン入口」より東に行ったグリーンタウン高尾団地の西側にある「観栖寺台公園」に由来説明・城跡図板が建てられています。
公園南端に扉があり、下ると空堀・土橋があります。左に登ると桝形状遺構があり、石垣で養生された切岸があります。その上部が近年削平された主郭で、北に主郭の一部が残ります。公園化のために遺構がどれなのかわかりづらいのですが、主郭と思われる平地はかなり広いです。また、北側に腰曲輪があります。主郭の広さを見ても、八王子城主・北条氏照はこの小田野城にかなりの入れ込みがあったのかもしれません。
小田野城は、八王子城の北側、現在は霊園を越えた丘陵地にあり、この城の築城年代・築城者などは現在資料が発見されておらず推定の域を出ないといいますが、口伝によるところでは、八王子城主である北条氏照の家臣であった小田野源太左衛門の屋敷跡ではないかといわれています。
日本城郭大系によると、八王子城とほぼ同時期に築城したとされ、本城と同じく天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原征伐で上杉景勝軍の前に落城したと考えられていますが、城は未完成であったために放棄されたとも言われています。
一方で押し寄せた前田(利長)、松平、真田勢を相手に大激戦を交えたとの伝承もあるようです。(落城後も生き長らえた小田野源太左衛門は小田源左衛門と名を改め水戸徳川家に仕官している)小田野城を守備していた軍勢は全滅寸前まで戦い、寄せ手を長時間足止めした後に投降したのでしょう。
このように小田野城は、八王子城と山続きであることから、その出城・支城とも考えられています。
八王子城主の北条氏照は、北条氏政の実弟で外交的にも優れた資質を備えた武将として氏政・氏直の高い信任を得ていました。
かつて武田信玄の攻撃により二の丸まで攻め込まれた経緯がある「滝山城」では防御しきれないと判断した氏照は、八王子城に拠点を移すのですが、北部に在った浄福寺城の役割を考慮しても北からの攻撃を封じ込めるには完全ではなく、小田野に出城建設を指示したのではないでしょうか。
八王子城は小田原北条氏本城を除けば最大の支城で、天正12年(1584)から天正15年(1587)頃に築城されたとされていますので、おそらくこの時期の前後に小田野城も造られたと思われます
とはいっても実は小田野城についての文献・史料はなく、詳しい歴史が分かっていない点も多く、江戸時代に著された『武蔵名勝図会』に北条氏照の家臣小田野源太左衛門の屋敷跡と云う伝承が簡単に紹介されている程度で、長らく伝説の城と思われていたのです。
ところが、1978年(昭和53年)に都道61号線の建設に伴って、東京都の委託によって八王子市教育委員会が行った「深沢遺跡および小田野城跡予備調査」で発掘調査を実施したところ、十六世紀後半とみられる数段の腰曲輪、桝形状の遺構や空堀等が発見され、遺物として陶磁器類の破片・古銭・鉄砲の弾などが出土しました。
その結果都、城の下のトンネルは、もともと道路建設の際にこの丘を切り崩す予定だったものを、城跡の発見によってその保護のために急遽トンネル化し,昭和58(1983)年に八王子城の一部として国の史跡に指定されました。
もっとも城と言っても、トンネルのある丘は、「屋敷」といっているようにむしろ砦に近いものだったのでしょう。
要は、ここは案下道(現:陣馬街道)を眼下に見下ろすことのできる絶好の防御拠点であり、この地形を上手く利用して築かれた要害ということなのでしょう。
参考文献 「日本城郭大系」 新人物往来社 、現地案内板