初沢城
高尾山に向かう甲州街道のすぐ東側、JR(京王)高尾駅南口から少し歩いたところに初沢山(294.1メートル)があり、ここが戦国時代、武蔵国・西部地域における重要な戦略拠点と見られていた山城「初沢城」跡です。
築城年代は明らかではないが、麓にある解説板によれば、築城の手法からみて室町時代の15世紀末に造られたものではないかといわれています。
山頂に主郭、東北に向かう支脈の先端部(現・高尾天神社上)にも郭跡や堀切・削平地があり、山の東北方面(高尾・八王子方面)の守備を固めるための砦だったようです。
初沢城は、椚田城(くぬぎだじょう)・高乗寺城とも呼ばれ、この遺構については文政11(1828)年に幕府によって編纂された「新編武蔵風土記稿」によると、鎌倉幕府初期の横山党の一族・椚田太郎重兼が居住したともされていますが、定かではありません。
横山党とは当時「武蔵七党」とよばれた武士団の一つでした。武蔵七党とは平安後期~鎌倉・室町時代にかけて武蔵、下野、上野に勢力を伸ばしていた小領主の同族的武士集団です。
椚田氏は八王子市内元横山町付近を本拠としたらしいが、今の椚田町付近、湯殿川の上流域の谷を開拓したようです。
また、高乗寺開祖、のちに扇谷上杉氏の傘下に組み込まれた片倉城主の長井氏の築城とも言われています。長井氏の居城は片倉城として知られていますが、城主の長井道廣(長井大膳太夫高乗)は1390年に広園寺、1394年には初沢山の麓にある高乗寺を建立しています。初沢城は、この時代の手法で築城されていることから、この長井道廣との係わりが特に深かったと考えられています。
南北朝期は、大江広元の次男時広を祖とする長井氏は、大江一門として鎌倉幕府の要職にありました。建武の新政府の中にあって旧幕臣でありながら長井氏が登用されているのはその実務能力を買われてのことだったのでしょう。
この長井氏は南朝対立とその後の関東動乱を常に主流派の側に置きうまく世渡りしており、永享の乱(1437~39)、嘉吉の乱(1441)では長井三郎、六郎、八郎などの名を残しており、椚田塁を守衛していたということです。
そして1504(永正一)年9月、多摩川周辺を戦場にして(立河原の戦い)、山内上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉朝良(ともよし)が戦います。長井一族は婚姻関係のある扇谷上杉氏について戦います。
山内上杉勢は、武蔵、上野、相模に進撃しますが。この時、椚田塁の守将だった長井広直は、一族20数名と共に討死したとあり、椚田塁が落城したとありますので、この際に落城した椚田塁がこの初沢城とも言われています。
但し、落城したのは片倉城の、又はその両方の可能性もあります。この際、長井八郎なる武将が捕虜となっています。長井八郎と長井広直との関係は不明ですが、共に長井氏の一武将だったことは間違いないでしょう。
初沢城は、山城とはいっても八王子城ほど急峻でもなく、ちょうど平地から丹沢山系の山々に繋がる場所であるため、物見としての機能も持っていたことでしょう。
戦国時代には、八王子城の支城の1つとされていますが、そんなに支城とするに伴い大きな改築・改造はされなかった模様です。北条氏ならば、鉄砲対策として、郭を囲むような土塁を作るはずですが、八王子城には認められるそういった土塁も見受けられません。
立地条件としては、小仏峠の入り口にあたり、背後に高尾山、丹沢山系を控え、小仏峠方面の監視、本城である滝山城、八王子城との連絡面でも適切な立地条件といえるため北条氏時代になって支城網整備の中で、北条氏の手により今の形になったのではないかと思われます。
八王子城のように目立った遺構もないのですが、形式的には山麓に居館、背後の山を詰め城とする規模からも土豪の掌握に苦労しながら扇谷上杉方として戦った長井氏の築城は妥当なところかかもしれません。
小田原の役においても、ここで攻防戦が行われたかどうかはわかりませんが、恐らく城主以下全員が八王子城に集結し、この城は、最初から放棄されていたのではないでしょうか。
この一帯は御衣(みころも)公園といい、地元のひとの憩いの場となっています。山頂付近は初沢城の主郭で一周する道が設けられている。また、山の中腹には、菅原道真の像があり「菅公(かんこう)さん」と地元の人から親しまれている。
また麓には「みころも霊堂」という黄金色に輝く巨大なお墓の塔(マンション?)があり、高尾駅を降り立つ人からは不思議な目で見られている。
なお、東麓の初沢川沿いにある高乗寺は、長井氏によって寄進され、応永元(1394)年に開基、長禄元(1457)年に現在地に移ったとのこと。天正18年に豊臣勢が八王子城を攻めたとき本陣を置いたとされています。
また、この初沢城下には、太平洋戦争が激化すると空襲が増えたため、日本陸軍は「浅川地下壕」を堀り、トンネル内に中島飛行機武蔵製作所を設置しました。
採掘には日本人だけでなく多くの朝鮮人労働者も動員されました。
「イ地区」は、全長4800mの完成したもので、トラックが充分通れる広さがあり前述の長井道廣が建立した高乗寺の旧境内にあります。
「ハ地区」は、初沢城跡の真下に掘られ、75%完成していましたが、敗戦により作業は中断されます。
交通 JR・京王高尾駅南口から南へ、徒歩約10分
高さ 標高249m、比高25m
参考文献
『八王子城 みる・きく・あるく』峰岸純夫、椚圀男ほか/揺藍社
『よみがえる滝山城』滝山城趾群・自然と歴史を守る会/中田正光著/揺籃社