小田原城開城
氏照は、北条内の最強硬派であったようで主戦論者でもあったようです。
その氏照の持城である八王子城をいわばみせしめとして徹底的な殺戮戦により小田原の本城の開城、降伏を迫ったものだと考えられます。
討死にした中山勘解由、狩野一庵の首は僧侶に持たせて小田原城内の子供に届けられたといいます。 一方、小田原合戦で、後北条方の伊豆の拠点であった韮山城を守っていた武将は氏政・氏照らの弟、氏規でした。
開戦以来、豊臣方の徳川軍に攻められながらも長く抵抗を続けていましたが、八王子城が落城した翌6月24日に降伏します。(敗戦後、氏規は氏政・氏照らの切腹の介錯を務めた後に高野山へ追放されます)
北条氏の支城の中でも中核的存在であった八王子城の落城と四万四千の秀吉軍に包囲されながらも、抵抗し続けていた韮山城の開城は、氏政・氏直にとっても大きな痛手でした。そして、韮山城を明け渡した北条氏規は、氏政・氏直父子に降伏をすすめるのでした。
すでにその前に重臣松田憲秀(のりひで)や忍城主成田氏長の内応もあり、小田原城中は動揺していました。次々と支城を落とされ、援軍のあてもない北条氏は、もう戦意を喪失していたのです。
このとき、北条氏への降伏勧告の使者をつとめたのは黒田官兵衛でした。官兵衛は、氏政・氏直父子に降伏を勧告する際、酒などを贈りました。これに対し北条氏からは返礼として、刀や『吾妻鑑』が贈られたと伝わります
官兵衛の勧告に対し、北条氏政は反対の意を示しますが、息子の氏直は開城命令を受け入れ、天正18(1590)年7月5日、北条氏直は弟氏房を伴って小田原城を出て家康の陣に行き、「自分は責任を負って切腹するから城中の将兵の命は助けて欲しい」と嘆願するのでした。
家康はそのまま氏直を滝川雄利のもとへと行かせ、氏直が投降してきたことを秀吉に告げるのでした(『家忠日記追加』)。これにより秀吉は直ちに氏直の降伏を受け入れたのです。
しかし、秀吉は、氏直を助命する一方で、父親の氏政や重臣には切腹を命じています。秀吉は、自分の命と引き換えに城兵の命を乞うた氏直を神妙だと感じたされていますが、氏直は家康の娘婿であるという考慮から助命されたともいわれているようです。
しかし氏政・氏照と重臣の松田憲秀、大道寺政繁には切腹を命じたのでした。
氏政・氏照が秀吉との一戦を強硬に主張した主戦派であったことを秀吉は熟知していたし、また、憲秀や政繁は北条氏の重臣でありながら卑劣な行為があり、この二人も主戦派であったことを秀吉は知っていたのです。
7月5日、これらの処罰を命じた氏直あての秀吉朱印状(小早川文書)に、秀吉はわざわざ自筆で「尚々、是非四人然(しか)るべく候」と書き入れてあり、秀吉の決意のほどが知られます。
ところで、重臣の処罰にはこんな話が残されています。小田原城への調略により、北条氏の重臣・松田憲秀とその次男・笠原政堯の二人が内通しました。
ところが憲秀の長男・直憲は、父と弟の敵方への内通を北条氏政、氏直父子に報告したため、二人は捕えられ城内に監禁されます。 秀吉は、小田原城開城後、二人が解放されたことを聞き、官兵衛に「松田を誅せよ」と命令します。
この時、官兵衛は迷わずこの憲秀、政堯の父子二人を成敗し、秀吉に報告します。これを聞き秀吉は「なぜ我らに味方した松田父子を斬ったのだ。父子の内通を氏政めに知らせた直憲を成敗すべきだ」と怒ったといいます。すると官兵衛は、「松田父子は譜代の臣ながら主君に背き、武士の道から外れた者。一方の直憲は父には不孝者なれど、天晴れ忠義の臣。どちらを成敗すべきか明白」と反論したとか。
小田原城の受けとりは翌六日でした。
家康の家臣榊原康政と秀吉の部下脇坂安治・片桐直盛の両名が代表として城内に入いりました。
開城は混乱もなく行われ、七日から九日の間に数万の城兵が城から出て四方に散っていくのでした。
氏政・氏照兄弟も九日に城を出て、城下にあった田村安栖(あんせい)の屋敷に入いりました。
7月11日の夜、氏政・氏照は弟氏規の介錯(かいしゃく)で切腹し果てるのでした。
『太閤記』には、その時の時世の歌が記されています。
天地(あまち)の清き中より
生れきて
もとのすみかにかへるべらなり
氏照
明応四(1495)年初代北条早雲が小田原城を襲い、大森藤頼を追ってから五代、およそ百年にわたり、小田原を中心に関東に君臨した戦国大名小田原北条氏は、ここに終焉の時を迎えたのでした。
それは同時に豊臣の全国制覇を意味し、切腹の数十日後徳川家康が江戸入りし、ここに新しい時代が始まるわけです
なお、江戸時代には、八王子城は廃城となり徳川家の直轄地になりました。そのため現在でも城の遺構がよく保存され多くの遺物が発掘されています。
近年、国の史跡として整備されており御主殿や遊歩道、橋が復元され戦国時代の城を忍ばせます。