利家と八王子城
八王子城は、戦国時代の代表的な山城です全国制覇を狙う豊臣秀吉と北条氏が1588年頃から対立し、北条氏は領内で戦闘準備を始めます。
豊臣軍は前田利家を総大将に上杉景勝を加え上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してきました。
利家の率いる北国軍は、上野国の要衝でる松井田城を目指します。松井田城の守将は、北条氏の老臣大道寺政繁でした。
彼は、北条氏の5指に入る名だたる武将であり、それだけに北条氏が松井田城をいかに重要戦略基地とみなしていたかが窺い知れます。
大道寺軍は上野と信濃の国境である碓氷峠まで進み、北国軍を待ち受けました。
碓氷峠は、天然の要害であり、必ずやここで北国軍を食い止めることができるとふんでいたようです。
1590年、斥侯部隊である真田幸信の兵が大道寺軍と接触、ここで戦いの火蓋が切って落とされたのです。
緒戦は、真田軍が少数であったこともあり、北条軍が優勢を極めました。しかし、北国軍は、体勢を立て直すや一気にこの守りを突破し、北関東に侵攻し、松井田城を包囲したのでした。
知将大道寺政繁は、頑強に抵抗し、一進一退となかなか決着はつきませんでいた。
予想以上に抵抗する大道寺軍に、秀吉は、前田利家、上杉景勝に対し、総攻撃をしかけるよう指示、利家は、松井田城の水源を確保、景勝も松井田城の周辺の出城を徹底的にたたき、松井田城を完全に孤立させることに成功。
こうして北国軍優勢に傾くや戦況は一気に展開、松井田城は陥落するのでした。
要衝である松井田城を失った北条は総崩れとなり、間もなく上野の北条氏の城はほぼ全城が開城するのでした。利家達の大勝利といえるでしょう。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北国軍は関東北部から北条氏の支城を次々と落とながら 南下し八王子城に迫ります。
北条氏に残された城は、本城小田原城のほかには、八王子城、岩付城(埼玉県岩槻市)、韮山城(静岡県韮山町)、津久井城(神奈川県津久井町)、忍城(埼玉県行田市)と鉢形城のみとなっていました。
鉢形城も天然の要害で難攻不落の城とされていましたが、利家ほか前田軍が東から、上杉軍が南から、真田軍が北からと総攻撃をおこない、これに岩付城を落とした浅野軍が加わると、ついに開城となったのです。
利家・上杉軍は、これで勢いに乗り一気に八王子城に迫ります。
ところで八王子城攻撃の前に前田利家、上杉景勝が石垣山の本陣に戦勝報告のために豊臣秀吉を訪ねたとき、秀吉はあまり喜ばなかったといいます。
降伏を許すと共に時には城兵はことごとく殺戮することも必要だと側近にもらしたといい、これを聞いた2人は、八王子城を徹底的に壊滅させる決意を新たにしたというのが定説になっているようです。
いずれにせよ、それまでは相手を降伏させ、開城させる戦い方でしたが、秀吉からそれでは見せしめにならぬと言われ八王子城は徹底的にたたくという腹積もりであったようです。
さて一方秀吉軍が小田原城に来襲すると北条軍の司令塔であった北条氏照は精鋭部隊と共に小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊に任せます。
八王子城を守っていたのは横地監物、狩野一庵、近藤出羽といった老武将に率いられた農民、職人、山伏、僧侶や地侍達だったといわれます。
侍だけでなく山伏や農民、職人も駆り出され家族と共に八王子城に籠城することになります。
当時領地であった青梅の地侍達も北条氏照の強権の元に召集され、集合時間に間に合わなければ命にかかわると通達されたそうです。
寺の鐘も供出されたそうで、戦が終われば返還するという借用書が青梅の安楽寺や玉泉寺などに残っています。
いずれにせよ、1万5千の北国軍に対し八王子城の守兵は千足らず、山城でどんなに守りやすいとはいってもひとたまりもなかったと思われます。