八王子城攻防戦 開戦前夜
天下統一の動きが「織田信長」から「豊臣秀吉」へ受け継がれたのち、豊臣秀吉は、天正十二年(1585)に関白に任官し、翌年、四国征伐、翌々十五年には九州征伐を行って、西国をほぼ平定した。残りは関東・東北です。
そこで同年暮れ、秀吉は、「関東・奥両国惣無事令(そうぶじれい)」という命令を出しています。
これは、関白としての立場から、関東と奥両国(陸奥(むつ)国・出羽(でわ)国)における大名同士の戦いを停止させたものである。
つまり、「以後、大名同士の領土の取り合いなどがあれば、関白として征伐する」というわけです。
翌十六年(1588)四月、秀吉は後陽成天皇を自分の城である聚楽第に招き、全国の諸大名にも列席を命じました。
このとき、上洛したかしないかが、秀吉に臣従するかしないかのいわば踏み絵となったのです。
この聚楽第行幸に、北条氏政・氏直父子は列席せず、秀吉に服属しようとはしませんでした。
秀吉は、徳川家康の次女督姫が北条氏直(父は北条氏政)の妻になっていることもあり、島津氏のように、武力によらず臣従させたいと思っていたので、北条父子の上洛を求めました。
しかし、北条氏政は、「今日まで5代を累ねて関八州を治めてきた。それを、秀吉ごときに上洛を求められる筋合いはない」と無視したのでした。
8月、徳川家康は、「上洛を拒否するのであれば、氏直に嫁がせている娘を離縁してもらいたい」と北条氏に申し入れました。
北条氏政の代理として上洛した北条氏規(韮山城主)は、氏政の上洛を条件に、上州沼田城の割譲を要求しました。
その頃、武田氏の遺領であった甲斐・信濃・上野で混乱があり、北条氏政と徳川家康は実際に戦うことになりました。
しかし決着はつかず、北条氏が上野を、徳川氏が甲斐・信濃を領国とすることで和睦したのです。ところが、徳川家康に従っていた真田昌幸が、信濃の上田から上野の沼田にかけて領有していたことから、問題がおこります。
氏政は、真田氏に沼田の明け渡しを求めますが、真田氏は「墳墓の地」であると称し、拒絶していたのです。
このため、秀吉は、真田昌幸が上野に持つ所領のうち、名胡桃城を含む3分の1を真田領とし、沼田城を含む3分の2を北条領としたうえで、昌幸の失った分の替え地を家康が与えるという裁定をしました。
北条氏が強気の姿勢を見せていたには、北条氏は徳川家康や伊達政宗と同盟関係を結んでいたこともあり、秀吉に対抗できると考えていたからです。
特に北条氏照は、北条氏康の子、八王子城を拠点に二百万石と言われる北条氏の所領の三分の一を任されている実力者です。
兄や父と共に数多の合戦に参加し戦争経験も豊富だった氏照ですが、それ以上に実力を発揮したのは、外交面でした。氏照の周旋により、北条氏は上杉謙信、織田信長、伊達政宗のような有力大名と同盟を結ぶ事が出来たていたのです。
北条氏は、もともとの姓は伊勢氏といい、初代の伊勢盛時(北条早雲)が甥にあたる駿河の戦国大名今川氏親の支援をうけながら伊豆を平定し、明応4年(1495)、大森藤頼を追って城を奪取、嫡男・氏綱を小田原城主としました。
2代氏綱のときには姓を北条に改めて武蔵に進出し、3代氏康のときには上野(こうずけ)から下野(しもつけ)に勢威を及ぼすまでになりました。
つまりは、攻防戦前夜、氏政のころの北条氏の領土は、本城の小田原城がある相模のほか、伊豆、武蔵、上野の大部分、下野半分、下総(しもうさ)半分、上総(かずさ)半分、常陸(ひたち)の南部であり、安房(あわ)、上総の半分を持つ里見義康(さとみよしやす)との同盟関係を含めれば、東国最大の、関東の北条帝国であり、まさに関東の覇者と呼んで差し支えない大大名でした。
また、小田原城は、築城後も拡張に拡張を重ね、戦国時代の日本で最大規模の大城郭となりました。規模が大きいだけでなく、難攻不落の堅城でもありました。
小田原は永禄4年(1591)には上杉謙信に攻められています。謙信の最盛期で96,000余の軍勢が、40日間あらゆる手をつくして攻めたが、北条氏康が守る小田原城は落ちなかった。
結局、謙信は、周辺に放火して撤退するしかなかった。そのあと氏康、氏直、氏政と拡張整備工事をつづけ、更に防衛機能が高められていました。
また、永禄12年(1569)にも武田信玄が25,000の軍勢で攻めたが、これも難なく撃退し、難攻不落の堅城ぶりを天下に示していたのでした。
秀吉と衝突するようになったころ、当主は5代目の氏直でしたが、氏直の父にあたる4代目の氏政が「御隠居様」として実権を握り、秀吉への服属を拒否していたのです。
ところが、ここで前述した名胡桃城に関わる秀吉の裁定に違反する大事件が勃発します。
沼田城代の北条家臣・猪俣邦典(いのまたくにのり)が真田氏の名胡桃城代・鈴木重則(しげのり)の家臣・中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に乗じて名胡桃城を占領したのです。
重則は岩櫃城(いわびつじょう)で計略に気付き城に戻ろうとしましたが間に合わず、これを恥じて切腹して果てました。
真田昌幸はすぐに寄親である徳川家康を通して秀吉に訴え出て、秀吉は昌幸に「今後北条氏が自分たちに非がないことを訴えてきても、城を乗っ取った張本人を処罰しなければ、北条氏を許さない」書状を送っています。
1589年(天正17年)11月24日、名胡桃城が占拠されて僅か3日後に秀吉は、5ヵ条からなる本宣戦布告状を、裏切りを行なった北条氏だけではなく、北条氏側に加担する恐れのある全国の諸大名へも送りました。
本宣戦布告状には、「(北条氏が)度々の上洛命令に従わなかったことを不問としていたのは、徳川家康のとりなしがあったためであるが、北条氏は、沼田裁定を承諾せず、上洛を受け入れなかったばかりか、名胡桃城を奪ったことは約定違反であり、大罪にあたる。その所業を関白豊臣秀吉が、(天道に背いた北条氏を)勅命にて征伐する。年が明け次第、北条氏直、氏政両名の首をはねる」との旨が記されていました。
一言でいえば「惣無事令」違反ということです。
「惣無事令」とは、前述のように大名たちが領土争奪の私闘を行ってはいけないということです。
領土確定の問題は、秀吉自身が裁定する。
そして大名たちは上洛して秀吉に服従を誓わなくてはならない。
これは天皇の委嘱を受けてこの国を治めるということを意味しています。
いわば秀吉が最強最大の日本の頂点に立つものであるという法令ということです。
北条氏政・氏直父子は、この「惣無事令」に違反したというのでした。
もっとも、この時に至っても北条氏は、秀吉と積極的に戦うつもりはなかったように思われます。
なぜなら、北条氏直は豊臣秀吉の側近衆へ本書状を受け取ったのちすぐさま、「名胡桃城占拠に自分は関与しておらず、家臣が独断でやったことである」と言う弁明書を送り、さらに重臣「石巻康敬」(いしまきやすまさ)を上洛させて姻戚関係にある徳川家康へ秀吉へのとりなしも頼みます。
しかし徳川家康は上洛し小田原城攻略戦の軍議に参加していたため、北条氏直の手紙を受け取れず、豊臣秀吉へ取りなせませんでした。
結局、豊臣秀吉は聞き入れず、小田原征伐が開始されました。
しかし、この時、北条氏は、秀吉との平和的な解決に向けて交渉を進めながら、戦いになったときのことも想定して戦闘の準備もしていました。
つまり、和戦両様の構えでいたわけです。たとえば、秀吉が東海道から攻めてくるとみて、小田原に通じる箱根路に山中城、足柄路に足柄城を築かせていました。
また、前述のように小田原城は、かつて上杉謙信や武田信玄を撃退したこともある難攻不落の名城でしたから、氏政としては、何か月も籠城することができるという自信があったと思われますが、さらに、これらの城が突破された場合のことを考え、惣構の大外郭の普請を実施します。
東は山王川、南は早川、西は水の尾の谷間まで至り、城下町はおろか谷や田畑までをすっぽりと囲む巨大なもので、俗に周囲五里(約20km)などといわれました。
いわば戦争を継続しながら農作業も出来るという本物の城塞都市に変貌していたのです。
決して破ることができない壁のような、深いくぼみと高い土塁・堀切りを城と城下町の周囲にめぐらせて閉鎖空間をつくりだした。いわゆる「総構(そうがまえ)」を作ったのでした。
北条氏側の戦力としては、北条本体だけでも、5万6000余の軍勢を動員できたとみられています。
これに、伊達政宗や徳川家康が加われば、秀吉に対抗することは十分に可能だったことでしょう