八王子城の規模
城山は本丸、松本曲輪(くるわ)、小宮曲輪、御主殿曲輪などを持つ城山と城山川の流れる谷を隔てた東の太鼓曲に大別できます。
規模は広大で城全体の利用計画も複雑、築城にはかなりの年月をかけたと思われます。
八王子城は堅城だったらしく、『尊経閣文庫文書』によれば、前田利家は「名城ゆえに犠牲が多く出た」と記している。。
また、間宮若狭守綱信は、天正8年(1580)に安土城の織田信長を北条氏照の使者として訪問している記録が残っており、その際目にした石垣の様子を氏照に語っていたのでしょう。
八王子城跡にはたくさんの石垣が残されています。これらの石垣は、安土城を模したのではないかとも言われてきました。
強く大きな城を造りたかったという、氏照の意気込みが伺えます
氏照は、この強固な八王子城の完成をまって移転するこころづもりであったろうが、1587年頃、氏照は滝山城を出て八王子城へ移ってきています。
あまりに大きな山城であったため、このときはまだ、八王子城は未完成だったという説もあるほどです。
この2年後の1589年に、北条と真田の間で、領地をめぐる争いが勃発。翌年、豊臣の大軍による小田原征伐が始まります。
小田原城を守るため築き上げたばかりの八王子城に、最期の時が迫っていました。結果的に八王子城は、このように未完成のまま天正18年に落城を迎えることになる。
さて、八王子城の個々の造りや仕掛けにつき見てみよう。
輪木製とはいえ長さ32メートル、幅4メートルの「引く橋」。引く橋というのは、もともと敵が攻めてきた時はずせるようになっていました。
城内に引っ張りこめば、忍者も通れないというしろもの。
橋げたは車輪付きで、車輪が並ぶところから「そろばん橋」とも呼ばれたとか。
橋のたもとの石垣もかなりの規模だ。優に5-6メートルはある。当時の関 東の城の石垣は大人の背たけから2.5メートルほどだった。
戦国時代の城は、江戸以降のような天守閣や見上げる高さの城壁はなかった。土を盛った壁・土塁と空堀をめぐらす作りだ。八王子城は天正10年(1582年)ころから、北条氏が織田、豊臣軍に備えて築き始めた。
標高470メートルの山頂を中心に、石垣や曲輪(くるわ)と呼ぶ平地、見張り台、やぐらなどを配置した堂々たる山城だった。これも再建された城門を入ると、「千畳敷」の広場がある。
古文書では大規模な御殿があったとされ、発掘調査でも中国の磁器や茶器、武器が見つかった。
しかし、まだ工事が続いていた天正18年6月23日未明 豊臣軍の上杉景勝、前田利家ら5万の兵が総攻撃をかけた。
氏照や重臣らは小田原城にいて、留守部隊は妻子をふくめて数千人だったから、半日で落城してしまった。
司馬遼太郎 氏は『街道をゆく』の中で、豊臣軍を1万5000、城方は2000ほど、北条方の死者千余とし、「戦国期の戦闘としては惨烈な部類」と書いている。。。。