八王子城は最後の山城
八王子城が建てられたとされる近世においては、多くの城が平地を利用した平山城、「平城」が主流でしたが、八王子城は深沢山の山頂に築かれた山城です。
山城が多く建設されたのは、まさに戦闘が頻繁に起きた戦国時代です。高地での建築は非常に難しいことから、他の城に比べて質素な作りが多いのも特徴です。大規模なものになると、いくつかの周辺の山に、本丸や二の丸といった支城を建て、山系全体を防御施設にするものもあります。つまり、「山城」とは、文字通り山を利用して築かれた城のことです。
八王子城が自然の地形を利用した要塞と言う役割の強い「山城」として築城されたことは、実は当時の潮流とは逆行したものと考えられていますが、これはなぜでしょう。
前述の通り、戦国時代の山城の大半は、山頂に防衛施設を建て、住居は麓に構えていたようです。
ところが、戦国時代後期に入ると、段々世の中が安定し始め、険しい山の上にある山城に滞在することは、領主にとって不便と見なされるようになっていきました。ここで平山城または平城と呼ばれる城が台頭します。
山城の目的が防衛に特化したものであるのに比べ、平山城や平城は、防衛以外にも政治や経済の中核を担う機能も持つよう造られています。
流通の便の良い、町の統治がしやすい場所に城を築き、防衛のために掘を何重にも掘ったということ、つまり、山の上では不便なため、平地に城を構えるということです。
貿易などに便利なよう、交通の要所を選んで築城されることも多かったようです。平城の周囲には段々と城下町が形成され、繁栄していったのです。
ところが、八王子城は、規模は大きいですが、典型的な山城タイプの城です。
そんな時代に、山城を築城の理由には、北条氏がそれ程までに守りを重視していたと言う歴史的背景があります。
北条氏はこの他にも山城を築いていますが、八王子城はそのなかでも最大規模の物で、発掘により石垣などに近世城郭の特徴などが見られることも分かっています。
山頂に本丸、そのまわりに防衛のための郭がいくつか設けられ、また、山頂に向かう道の途中にも、郭らしき跡が残されています。
八王子城の守りについていた武将たちはこれらの郭から矢を放ち石を落として、必至の防衛を行ったのでしょう。戦後の発掘調査で、山の中腹部分を中心にたくさんの矢尻や鉄砲玉が発見されています。
山頂部分の平地はそれほど広くないため、防衛のための最低限の設備だけが築かれていたようです。
平山城や平城が盛んに造られ始めた時代に築かれた、戦国末期最期の山城とも言われています。