八王子城築城の経緯
氏照は早くから自分の居城を八王子へ移したかったようです。
というのもこの地は二十日 市場を中心とした経済的にも栄えていた場所でもあり、また宝生寺や高尾山薬王院などの 伝統的な寺院、神社を多数有する聖地でもあったからなのです。
さらに、鎌倉街道や甲州への街道が集中する交通の要衝でもあり、まさに軍事的な重要拠点でもありました。
もともと八王子城の南には十十里山という防衛拠点が置かれていたのですが、永禄12年に武 田信玄が小田原攻めの途中で滝山城を包囲した際、武田軍の部隊が小仏峠を越えてここに侵入し、ここを守備していた氏照軍を打ち砕いたといういわうる十十里合戦が行われ、これにより滝山城が落城寸前だったという苦い経験があります。
これで氏照は八王子城を築くことにしたのではと考えられます。
ちなみに八王子とは法華経にある仏教伝説で釈迦の前で多くの人が悟りを開き出家した際に最後に出家した王の八人の王子がその後仏門に入ったという話に由来しています。
この八王子信仰が各地に伝わり、八王子社がこの山の頂上に建てられたというものです。
そのような聖地に、豊臣秀吉を意識し、戦闘用の城として移転するのが八王子城なのです。氏照が軍事の専門家だから滝山城では豊臣軍とは戦えないことを十十里の合戦から判断していたのでしょう。情報にも強かった氏照は豊臣軍とは本拠の小田原城で籠城戦になると考 えていたのではないでしょうか。
だから各城は少数部隊で持ちこたえられる造りにしておく必要を感じ、滝山城のような平地ではなく山城の形をとった攻めにくいし守りやすい八王子城を考えたのだと思われます。
しかしそれが八王子城の悲劇を生み出すことになろう とは氏照は予想もしなかったでしょう