八王子城主 北条氏照とは
八王子城主「北条氏照」の名前は、あまり聞いたことがないひとが多いかと思われます。
小田原に本拠をおいた早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代、100年続いた北条氏は有名かと思いますが、氏照はこの三代氏康の三男(次男が早世であっため氏照を次男とした文書も多くあるようです)で氏政の弟にあたる人物です。
1540年にこの世に生を受け、1590年に小田原城にて氏政と共に自害をしたと伝えられていますが、実は氏照については、詳しい資料があまり残っていません。
これは戦国時代には珍しいことではなく、当主として家を継ぐ長男以外の記録は、曖昧な場合が多いようです.
わかっていることだけで話をつなげると、氏照は天文9年(1540)、北条氏康の三男として生まれました。
永禄2年(1559)、20歳の時に関東管領上杉憲政の重臣で武蔵守護代、滝山(横山)城主・大石定久の娘を娶り、養子となって家督を譲られ、大石源三氏照と名乗ります。
大石氏は滝山城を本拠として埼玉県や多摩に力を持っていました。
定久が隠居後、大石領は北条氏康の支配下に入り、氏照は滝山衆を自らの家臣団に組み込みました。
氏照はこの頃、姓を北条に戻したのであろうといわれます。
当初氏照は滝山城にいましたが、永禄半ば頃から北条氏が下総、下野、常陸方面へ進出するための軍事責任者として活躍し始めました。
いってみれば北条軍を代表する戦上手の氏照軍、北条軍団のエースとなっていくわけです。
北条一族の中では、兄であり小田原上の城主であった氏政をよく助け、北条の勢力拡大に力を尽くしたとのこと。
しかし氏照が力を発揮したのは戦だけではなかったのです。
外交面でも大活躍して、会津の芦名氏や出羽米沢の伊達氏とも信交を深めていきます。
永禄11年(1568)には甲斐の武田信玄が甲相駿同盟を破棄して今川氏を攻めたため、北条氏は武田氏と敵対することとなり、氏照は弟の氏邦とともに越後の上杉謙信の許に赴いて、翌年、越相同盟を結ぶなど、外交面でも活躍します。
しかしこれによって、滝山城は合戦の舞台となりました。 永禄12年(1569)、武田信玄は北条領に侵攻します。
滝山城に攻撃をしかけた武田勢は三の丸まで落とし、滝山城は危機に陥ります。しかし小田原城攻撃を目的とする武田軍は滝山城を1日だけ攻撃して、翌朝には姿を消したのでした。
かろうじて耐えた滝山城でしたが、この反省を踏まえ、氏照はこの滝山城から八王子城に移ることを計画します。
八王子城については詳しい記録が現存しないので いつ頃築城したのかまだ不明な点もおおいのですが、豊臣秀吉を意識して築城したというのが定説になっています
当時、北条は100を越える出城を築いたとも言われています。
八王子城にも小田原城の支城としての大きな役割がありました。
位置から考えて、小田原城の北側を守る、つまり、武田や上杉に対抗するための城であったことは間違いないでしょう。
しかし、氏照はこのときすでに、豊臣との戦いを意識していたのではないかと考えられています。
なお、北条家の発展に大いに力を注いだ氏照はその後、北条家を守護する誓願を立てて女性を断ちます。そのため妻の比佐は夫を怨慕するあまり自害するという悲劇が起きました。これは氏康・氏照親子が篤く高尾山の飯縄大権現(飯縄大明神)を信仰していたためです。
飯縄大権現は、殊に戦国時代の世に武将の間で、優れた妖術として熱い信仰を集め、武田信玄は、飯縄大権現の小像を懐中して、守護神としたと語られ、山形県上杉神社に遺される上杉謙信の兜の前立には、飯縄大権現の尊像が祀られています。
そしてこの神を奉じる「飯縄の法」修得のためには女性を近づけてはならないとされていたのです。一説では上杉謙信が生涯女性を近づけなかったのも、飯縄大権現を奉じていたからだと伝えられています。